【重要文化財】東大寺・俊乗堂「木造 阿弥陀如来立像(釘打ちの弥陀)」の年代(歴史)や造立方法・作者を‥‥‥知りたぃ?

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奈良 東大寺・俊乗堂「木造 阿弥陀如来立像(釘打ちの弥陀)」【重要文化財】

「阿弥陀如来立像」【重要文化財】

造立年

  • 不明
  • 推定:1202年(建仁2年)から1208年(建仁8年)※鎌倉時代
像高

  • 98.78cm
造立方法

  • 一木割矧造
  • 金泥塗り
材質

  • ヒノキ
発願者

  • 重源上人
  • 寛顕
作者

  • 快慶
安置場所

  • 東大寺・俊乗堂

阿弥陀如来立像の読み方

阿弥陀如来は「あみだにょらい」と読みます。

なお、この俊乗堂の阿弥陀如来立像に関しては別名で「釘打ちの弥陀(くぎうちのみだ)」とも呼ばれています。

釘打ちの弥陀」の名前の理由や由来とは?

釘打ちの弥陀」の名前の理由や由来とは、浄土真宗の開基である親鸞がこの阿弥陀如来立像を深く信仰し、京都に持ち帰ろうとした際、東大寺の僧侶がそれを嫌がり、持ち出せないように像の足の甲に釘を打ち付けたという話が伝わっているためです。

この他の説としては、逆説として、親鸞上人が本像を東大寺に残して京都へ帰った際、本像が親鸞上人を追いかけようとしてあまりにも動くことから、東大寺の僧たちが釘を打ち付けて動かないよう封じたという伝承も残されています。

この話には諸説あるようですが「東大寺の僧が本像の足に釘を打った」という点は共通のようです。

なお、実際にこの伝承を裏付けるかのように、なんと!!像の足の甲には釘を打った跡のような摩訶不思議な穴があるように見えます。

俊乗堂「阿弥陀如来立像」の歴史・由緒

本像は東大寺に伝わる古書物「東大寺諸集」によれば、重源上人が1202年〜1203年の間に私財を投じて快慶に造らせたとされる像です。しかし、理由は定かではありまっしぇんが、途中で造立が頓挫してしまい、以降、重源上人の存命中には完成まで至りませんでした。

その後、重源上人の意志を汲んだ東大寺の僧侶「寛顕(かんけん)法橋」の発願によって、再び造立が開始され、1208年(承元2年)に完成を迎えています。

寛顕は、臨終の間際になると本像(釘打ちの弥陀)の指に五色の糸を結び付けて、それを自身の指にも結び、1216年(建保4年)にこの世を去ったと伝えられています。きっと阿弥陀如来と吉縁を結び極楽浄土へと導かれたことでしょう。

現在は俊乗堂の左脇の須弥壇に安置されています。

重源上人ではなく「親鸞聖人」が造立を発願したという説もある?!

快慶はこの当時、「仏師・安阿弥(あんあみ)」とも名乗っており、かつて現在の鐘楼エリアに存在した「東大寺浄土堂」から発見された「釘打阿弥陀如来略縁起」の記述によれば、親鸞聖人(しんらんしょうにん)が1207年(建久2年)に高野山で仏師・安阿弥に造立を命じたともされています。

いずれの説が正解なのは不明ですが、釘打阿弥陀如来略縁起には事細かに事の次第が記載されていることから、親鸞聖人説の信憑性が増します。

俊乗堂「阿弥陀如来立像」の特徴

ややなで肩は、平安期の仏像の特徴でもありますが、目は彫眼ではなく玉眼となっており、これは鎌倉期の仏像の典型的な特徴でもあります。ヒノキの一材から切り出し、頭と胴体とで切り離して側面中央で割矧ぎ、内刳りが施されています。

衣紋には切金、亀甲つなぎ文が施され、袖、手、足先は別材で造立の後、組み上げられています。

ド頭部分の「肉髻(にっけい)」とおデコの「白毫(びゃくごう)」には、水晶がハメ込まれており、附属の光背、台座は後の時代で付けられたものです。

快慶作である理由

また、右足部分の組み込み式の木組みの突起部分には、当時、快慶が使用していたとされる「安・阿弥陀仏」の略字となる梵字”アン”という「快慶の号」が刻まれていることや、「承元二年」の刻銘があることから、この像が承元二年(1208年)に快慶が造立したという証拠になっています。

この他、像の内部を透過撮影にかけたところ、なんと!「五輪塔」の姿が映し出されており、これは仏舎利を意味するものではないか?などと考えられています。

俊乗堂の場所(地図)

俊乗堂は、鐘楼を中心とした「上院地区」と呼ばれる区画にあります。俊乗堂については以下の別ページをご覧ください。

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