東大寺「行基堂」の歴史(由来)・建築様式(特徴)・大きさ・作った人・見どころを‥‥‥知りたぃ?

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奈良 東大寺「行基堂」

東大寺・行基堂-
創建年

  • 不明
  • 推定:1181年(養和元年)〜 1203年(建仁3年)※鎌倉時代
建築様式(造り)

  • 宝形造
  • 正面向拝付
大きさ

  • 四辺約2m
屋根の造り

  • 本瓦葺
発願者

  • 重源上人

東大寺「行基堂」の読み方

東大寺の境内には、読みにくい名前の仏像やお堂が多数存在しますが「行基堂」は「ぎょうきどう」と読みます。

行基堂の名前の由来とは、奈良時代、東大寺大仏造立の総監督として活躍した高僧・「行基(ぎょうき)」を祀っていることからこの名前が付されています。

東大寺・行基堂の歴史

東大寺大仏殿の東側の丘の上に「鐘楼」や「俊乗堂」と共に建っている、正方形の小さなお堂が「行基堂」です。

実は現在の行基堂は、もともと行基堂として造営されたものではなく、創建当初は「俊乗堂(しゅんじょうどう)」という名前でした。

ここでピーンと来た方はなかなかの東大寺通ですが、その通りです!

俊乗堂は現在も存在する堂舎となりますので、これでは2つの同じ名前の堂舎が存在することとなり、ここで大きく話が食い違ってきます。しかし、ぬぅあんと!現在の俊乗堂はかつての東大寺別所「浄土堂」跡に新造された堂舎であり、公慶上人による大仏殿再建の際の1704年頃に並行する形で造営されたと考えられています。

東大寺・行基堂の建築様式(造り)

屋根は「宝形造(ほうぎょうづくり)」と呼ばれる寄棟造(よせむねづくり)の一種で、頂点から同じ大きさの三角形(正三角形)の斜面が4面、造られています。

堂舎に若干、白色が残っていますが、ひょっとすると創建当初は彩色が施されいたのかもしれません。

元々は「俊乗房重源上人坐像」が祀られていましたが、江戸時代に境内「俊乗堂」に移設されたのを機に「行基菩薩坐像」が安置されました。

「行基菩薩坐像」は、大仏殿などを再建した「公慶上人(こうけいしょうにん)」の発願で「仏師・賢慶(けんけい)」により造立されました。

通常、扉は閉まっていますが、格子の一部から中をのぞくことができます。

毎月5日には、行基菩薩供養の法要が行われています。




「行基」とは?

行基とは「ぎょうき」と読み、私たちがよく聞く話として「田畑を耕作し治水事業を積極に行った人物」「疫病などの病気で苦しむ人々を、仏教を通して救済した人物」などの伝記で有名です。

行基の名前は主に学生時代の歴史の授業で耳にした名前であると思いますが、奈良時代には行基以外にも、たくさんの僧侶がいました。

しかし、現代に至っても日本中の至る地域で行基の銅像や行基をお祀りしているお堂があったります。

いったい何故、現代に至っても行基はこれほど有名なのでしょうか?

行基は667年(天智7年)に河内国大鳥郡(大阪府堺市)の出身で、苗字を「高志(こし)」と称します。

高志氏は百済系渡来氏族であり、行基はその末裔にあたります。

682年(天武11年)に15歳で出家しています。

出家先は同じ河内国に在住していた「道昭(どうしょう)」という法相宗の僧に師事する形で出家しています。

道昭は653年(白雉4年)に定恵・道観(粟田真人)らと共に遣唐使として唐に渡っており、中国では西遊記で有名な「玄奘三蔵法師(げんじょうさんぞうほうし)」に師事して教えを学んでいます。

玄奘三蔵法師の教えとは、西洋などから流入した最新の技術(土木・造船など)を用いて慈悲をもって慈善事業を行うことです。

道昭は三蔵法師から最新の技術と慈悲の精神を学んで日本へ帰国しています。

その道昭の弟子である行基も同様に慈悲の精神と最先端の技術を学んでいます。

行基がこの技術と精神をもって日本全国を練り歩き、慈悲の心で貯水池を造り田畑を耕し、人々の生活を潤わせてきた歴史は言うまでもありません。

実は行基が存命中だった奈良時代の当時、「僧尼令(そうにりょう)」という法律のようなものが存在しました。

「僧尼令」とは、自らが居する寺院以外での社会貢献活動や、民間への布教活動を禁止する法律のことです。

しかし行基は、人々の苦しむ声を聴き、不作続きで作物が穫れないといった事態を見過ごすことはできませんでした。

そこで法律を破り、人々を救うために日本各地へ巡行する旅に出て、人々を苦しみから救済するために仏教を教えます。

その傍ら、「溜池(ためいけ)」を造るなどの「効果的な田畑の耕し方」を教えたり、堤を造営するなどの「治水の知恵」も授けます。

こうして1つの地域でひと仕事を終えると、再び巡行の旅に出てこれを繰り返しながら日本中を歩き回り民衆から称賛され、やがて日本国の救世主になっていきます。

さらに巡行の最中、行基に共をする者も出没し「弟子」や「支持者」が現れはじめますが、このような行基の動きの危機を察したのが朝廷です。

朝廷は僧尼令に反して民衆を誑かす(たぶらかす)行基のやり方に意を唱え、行基を弾圧し寺院以外で行う活動に対して禁止令を出します。

しかし、行基は聞く耳をいっさ持たず、社会貢献活動や布教活動を続け、多くの寺を建立しただけではなく、ため池、堀、橋、貧困者のための施設の建設を行います。

その都度、朝廷が行基の前に立ちはだかりかるのですが、次第に行基への弾圧が容易にできなくなって行くことになるのです。

「行基」と「東大寺」

当初、朝廷は行基の活動毎に弾圧を敢行しており、何とか事を治めていました。

しかし、国家事業で出来ないことを行基は可能にし、さらに仏教を布教し民衆の心も救済しました。

やがて、民に尽くす行基の姿を民衆は神仏の所業のように感じ、行基を崇敬する「信者」が増加していくことになります。

そして信者は増加の一途をたどり、ついに行基は世論の力を背に付けることになり、朝廷は容易に手が出せなくなっていきました。

しかし、ここで朝廷は「ある妙案」を思きます。

この当時朝廷は、国家的大事業と言われていた「東大寺・大仏」の建立の計画に行き詰っており、この事業に世論の力を得た行基を利用しようと画策します。

こうして、聖武天皇直々に声を上げ、行基との対談の場が設けられることになります。

対談は円満に終了し、この対談のあと、なんと!聖武天皇は敵対していたハズの行基を、朝廷の重職でもある「勧進」に任命するのです。

「勧進」とは、布教活動、社会的活動を行い、その過程で資金集め(浄財)をする役職のことです。

こうして世論の力を背に受けた行基と朝廷とのタッグが実現し、つまりは「向かうところ敵なし」となり、次々と国家事業を成功に導いて行くことになります。

やがて資金も集まり、満を持したところで745年、聖武天皇は行基を宮中へ招聘し、日本で初めて僧侶の最高位である「大僧正(だいそうじょう)」の位を授けることになります。

さらに「大僧正」となった行基をなんと!国家大事業の「大仏殿及び大仏鋳造」の礎ともなる総責任者に抜擢することになるのです。

その後、大仏は無事に完成を迎えることになり、多大な貢献をした行基を評して、死後には「菩薩(ぼさつ)」という「おくり名」が授けられました。

さらに後世にまで残る大名誉「東大寺・四聖」の1人として讃えられ、現代に至っても高名を轟かすことになります。

行基が亡くなって1000年経た江戸時代、焼失していた多くのお堂を再建するために大勧進になった公慶上人。

きっと行基と言う人物の偉大さに尊崇の念を抱き、少しでもあやかろうとしたのでしょう。

東大寺・行基堂の御朱印

この行基堂には御朱印があります。

中央に大きく「行基堂」と墨書きされた御朱印になります。

行基堂の御朱印をいただける場所などの詳細は当サイトの以下↓の別ページにてご紹介しております。

奈良県・東大寺(二月堂・三月堂など)の御朱印の「種類・値段・購入場所」

  • 値段:300円

東大寺・行基堂の場所と行き方(地図)

東大寺・行基堂は大仏殿の東側の丘陵に位置します。大仏殿から徒歩約5分ほどです。

ちなみに行基堂が建つあたりはかつて金鐘寺(こんしゅじ)もしくは金光明寺(きんこうみょうじ)と呼ばれた東大寺の前身とされる寺院の伽藍があった場所です。この伝承を敬う意味合いで別名で「上院」と呼ばれているエリアになります。

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