創建当初と平安時代の東大寺の伽藍配置図とは❓

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創建当初の東大寺の伽藍伽藍配置図

創建当初の東大寺伽藍は、学説によれば「東大寺式伽藍」と呼称し、大仏殿(金堂)を中核とし、その後方の両脇に「鐘楼」「経楼」を素敵に配し、その後方に「講堂」と、さらにその後方に東室(ひがしむろ)・北室(きたむろ)・西室(にしむろ)から成る「三面僧房」を備えていた。

また、大仏殿手前には中門、そのさらに南側に「南大門」を備え、中門と南大門の中間地点の東西左右には、それぞれ「仏塔」が並置されていた。

 

上掲写真の伽藍配置図は現在までで明らかにされている当初の東大寺式伽藍を現在の大仏殿伽藍に当てハメてみたもの。

イラストで縦向きに直した東大寺伽藍配置図

 

上掲イラスト画像のように、南大門と中門の間には左右東西に、ぞれぞれ西塔と東塔と呼ばれる双び塔(仏塔)が屹立し、それぞれの塔の周りには廻廊が配され、西塔院や東塔院と呼ばれる独立した伽藍があった。

このような様式の伽藍は、我が国最古級の伽藍配置を有する飛鳥時代創建の飛鳥寺や法隆寺にも見られず、然るに、東大寺特有の伽藍配置であることから、俗称で「東大寺式伽藍」とも呼称される。

なお、この東大寺の東西の仏塔は東大寺に伝わる古書「東大寺要録」によれば、かつて70mもの高さを備えた七重塔であったと伝えられており、これらの伽藍配置はおよそ789年(延暦8年)までには成立していたと考えられてい‥申す。えっ

殊に、初期東大寺伽藍の様相は、「聖徳太子伝古今目録抄」に記される、金堂、塔、講堂、鐘楼、経蔵、僧坊、食堂を備えた、いわゆる「七堂伽藍」が成立した大寺だったことに‥あ、なっちゃぅ。

平安時代の東大寺伽藍

平安時代には、修二会の創始者である実忠(じっちゅう)が新たに回廊の造営、および食堂前を北向きに流れていた川の流路を南向きに変える工事を行っています。

川の流路を変えた工事に関しては近年、食堂周辺の調査が行われ、わりと大規模な工事が実施されていた事実が明らかにされています。

現在の伽藍と創建当初の伽藍との比較

大仏殿後方に講堂や僧房、食堂は皆無

現在の大仏殿の伽藍は後方に、城郭に見られるよう「高麗門(こうらいもん)」が設けられ、その手前は一般禁足地となる茫洋とした芝の広場が広がる。

↑大仏殿後方の朱色が映える高麗門

現在の高麗門の外側は二月堂から焼門前交差点まで延びる参道になっており、かつての伽藍はさらに延びて正倉院あたりまで広がっていました。

中門の東西左右には塔がない

大仏殿正面出入口前には石畳が中門まで延び、その手前には八角灯籠、その右脇には手水舎が設けられ、石畳の左右には芝の広場が広がる。

現在では、「講堂跡」や「食堂跡」、「東塔(院)跡」「西塔(院)跡」には案内板が立てられており、天平の名残り今に伝える。

比較で理解♡飛鳥〜奈良時代までの主要な寺院の伽藍配置図 一覧

‥については下記ページを素敵に要チェック💘

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