【重要文化財】東大寺勧進所「公慶堂・木造公慶上人坐像」の年代(歴史)や造立方法・作者を‥‥‥知りたぃ❓

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奈良 東大寺・勧進所「公慶堂・木造公慶上人坐像」【重要文化財】

造立年

1705年(宝永2年)※江戸時代

像高

69.7cm

重要文化財登録指定年月日

1906年(明治39年)9月6日

作者

性慶(仏師)
即念(仏師)

発願者

公盛

安置場所

東大寺・勧進所「公慶堂」

公慶上人坐像の読み方

東大寺の境内には難しい漢字の表記で読みにくい名前の仏像や堂舎がありますが、木造公慶上人坐像は「こうけいしょうにんざぞう」と読みます。

公慶とは?公慶上人の歴史

1565年(戦国時代)、時の征夷大将軍・室町幕府第13代「足利義輝」を暗殺し、畿内の覇権を牛耳った「三好三兄弟」と「松永弾正(久秀)」との間にさらに畿内の覇権をめぐって争いが勃発します。

この戦は義輝公暗殺後の1567年に勃発し、松永・三好の両軍は東大寺境内に布陣し、東大寺が主戦場となりました。

その結果、東大寺が戦火によって炎上し、大伽藍のほとんどが焼失するに至ります。

それからしばらく間、東大寺は野ざらしの状態でしたが、江戸時代に入ると救世主が登場します。

この救世主こそが公慶です。

公慶は東大寺と同じ大乗仏教の1つの宗派である「南都六宗(なんとりくしゅう/ろくしゅう)」のさらに1派となる「三論宗(さんろんしゅう)」に在籍していた僧侶です。

公慶は荒れ果てた東大寺の伽藍の様子をみて、すぐに再建を思いつきます。

そこで江戸幕府へ再建を願いでましたが、幕府も財政が厳しいとのことから支援を受けることは叶いませんでした。しかし幕府は、自らで資金を集める活動(勧進活動)は許すとの命を下しました。

幕府の公認を得た公慶は1684年(貞享元年)から勧進活動のために日本全国を練り歩き、なんと!10億円もの浄財を集めることに成功します。

その後、公慶の知己、「筑波山知足院の住職・隆光(りゅうこう)」の取り成しによって時の将軍・徳川綱吉公に謁見を許されます。

謁見の最中、綱吉公は、公慶の人物像はもとより、一連の行動にいたく感激し、自らも寄付を申し出ます。さらに綱吉は大仏殿再建を幕府の中核直轄事業として位置付け、日本全国の諸大名へも布令を出し、東大寺再建への寄付と材料の寄付を打診しています。

それだけにとどまらず、綱吉の生母である「桂昌院」までもが公慶に多額の寄付を申し出ています。

こうして見事、東大寺の再建は成功し東大寺が以前の威容を回復したのは言うまでもありません。

この後、公慶は過労の疲れがたまり、江戸にいた時に倒れて寝込んでしまい、2度と目を醒ますことはありませんでした。享年57歳。

時に大仏殿の上棟式が執り行われた直後のことでした。志半ばとも言えますが、それでもおそらく夢にまで見た大仏殿上棟を迎えられたことで、きっと心から安心しきったのでしょう。

公慶がこの世を去った後、格別の配慮で遺体はすぐに東大寺へ運ばれ、法要後、奈良県奈良市北御門町に位置する華厳宗「五劫院(ごこういん)」に埋葬され、ここで永眠されています。

なお、五劫院は一般の方の通常拝観は行っておらず、拝観する際は事前電話して予約をする必要があります。(拝観可能時間:9:00~15:00 ※要予約)

また五劫院には、鎌倉時代造立の重要文化財指定・ご本尊「木造五劫思惟阿弥陀如来坐像」が安置されている場所として有名です。毎年8月の上旬(1日から12日)に特別一般公開されます。

奈良五劫院の場所(地図)




木造公慶上人坐像の特徴

この坐像は他の坐像と違って威容や威厳のようなものが感じることができず、むしろ何かを訴えたい、そんなメッセージが込められているような坐像です。

両手は合掌し、虚ろで疲れた目をしていて、頬は痩せこけています。

目は顔の中央気味で造像され、小さいのが特徴的です。

通常、造像する際は、後世に残ることを考えてある程度の見栄えを意識して造像されますが、この像にはまったくそれが感じられません。

これは造像を発願したのが公慶の愛弟子にあたる「公盛(こうじょう)」という人物だからかも知れません。

公盛は公慶の弟子にあたり、師がどんな思いで東大寺再興を願い、並々ならぬ苦労に立ち向かったのかを後世に形として残したかったのだと考えられます。

また、その弟子の思いを汲み取り、この像を造像した慶派仏師・性慶(しょうけい)の腕も見事という他ありません。

ある意味、見方を変えれば慶派の仏師のプライドや情熱、威厳が感じられる仏像でもあります。

なお、一説に「公慶年譜」の記述によれば、大阪仏師の「椿井民部法橋・性慶」と「公慶の弟子・即念(そくねん)」が共同で製作したと記されています。

性慶が全般的に彫刻を担当し、即念が頭部分の細部を担当したと伝えられています。

性慶の名字の”椿井”とは、奈良仏師の一族であり、江戸時代に一族が分裂してそのうちの一派が大阪へ移り住んだと云われています。

ちなみにかつて本像は、公慶上人が創建したとされる東大寺の子院「龍松院(りゅうしょういん)」の御影堂に安置されていました。公慶上人が存命中だった頃の龍松院は勧進所として機能していました。

公慶上人像は大仏殿を向くように安置されている?

公慶上人は上述したように志半ばではありましたが、大仏殿の上棟式、いわゆる「大仏殿のほぼ完成」の知らせを江戸で聞いて入定されたことから、おそらく役目を8割方、終えられた気持ちもあったことでしょう。

しかしやはり、誰よりも大仏殿完成を見届けたったのは事実です。

そこでそんな公慶上人の気持ちを汲み取り、本像は大仏殿の方角を向けて(東向き)祀られているとのことです。

東大寺・勧進所「木造公慶上人坐像」の特別一般公開の日程・時間・拝観料金について

実はこの「木造公慶上人坐像」は、普段は拝観することは叶わず、定められた日のみ、拝観することができます。

また拝観する際には、別途、拝観料金が必要になります。

特別一般公開日程

例年4月12日、例年10月5日(2019年より10月5日のみ)

特別一般公開の拝観料金

一般(大人)500円(2019年度より600円)、小学生以下:無料

特別一般公開の拝観可能時間

法要終了後(午前10時頃)から16時まで※法要は午前9持から開始

東大寺の仏像(秘仏)の特別一般公開の日程・時間・拝観料金については当サイトの以下↓の別ページにてご紹介しております。

 奈良・東大寺の「仏像(秘仏)」特別一般公開(御開帳)の日程と時間・拝観料金・一覧

木造公慶上人坐像の安置場所とアクセス(行き方)

木造公慶上人坐像は東大寺・勧進所の中に位置する「公慶堂」の中で安置されています。

東大寺・勧進所は「東大寺大仏殿から奈良駅の方向へ歩いて」所要時間・徒歩約3分から5分の場所に位置します。

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