東大寺大仏or大仏殿を作った人や作り方(建築様式)‥作った理由を….知ってみる❓

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奈良県の東大寺は743年(天平15年)に創建された歴史あるお寺ですが、御本尊である大仏さん(盧遮那仏【国宝】)が完成したのが752年(天平勝宝4年)です。

つまり、今よりも1200年以上前に建てられたということになります。

しかし、謎となってくるのが叫びたくなるようなこんな疑問です。

「誰が?」

「どうやって?」

「なぜこんなドデカイ大仏を作ったの??」

・・と、言う疑問です。

以下では東大寺の大仏さんを作った人や作り方(建築様式)、作った際の材料の量などについてご紹介しています。

奈良県・東大寺の大仏殿にとんでもない過去が!?大仏さんの「柱の穴・鼻の穴と屋根・瓦」 の「由来・意味・歴史」

大仏殿の歴史や見どころについては以下の別ページにてご紹介しています。

 東大寺の大仏殿の「由来・歴史・見どころ・仏像」でご説明!

東大寺の大仏さまを作った人

大仏さんを作った人は何を言っても「当時の国民たち」です。

ただし、東大寺の大仏さんを最初に「作ろう!」と発願したのは聖武天皇であり、実際に現場の指揮を執ったのは僧侶の行基(ぎょうき)だと云われています。

この大仏造立には多くの人手、資金、時間、材料が必要であり、当初、工事行き詰っていました。

行き詰った理由は、聖武天皇が大仏建立に際して政治的な権力を振りかざして大仏建立をしなかったためです。

聖武天皇は大仏建立に際してこのように述べています。

「大仏建立は政治的な権力を用いて行ったのであれば意味がない。国民の総意をもって国民すべての善意の力を結集して行わなければならない。」

しかし当時、疫病や争いが各地で勃発し、国民は大仏建立どころではない状況でした。このような惨状を見た聖武天皇は一時期、大仏造立をあきらめかけます。

しかし、そこで気の抜けた聖武天皇の背中を押したのが皇后の「光明皇后」です。光明皇后から勇気付けられた聖武天皇は再びやる気を取り戻し、大仏造立を完成に導いています。

奈良王朝初めての男性天皇だった「聖武天皇」と「光明皇后」が幼くして亡くなってしまった、皇太子を供養するために建てた「金鐘寺」が東大寺の始まりと言われています光明天皇は大仏建立に関して、聖武天皇の背中を後押ししただけではなく、ケガ人の手当をする際の薬を買いそろえたり、はたまた、東大寺のお隣「興福寺・五重塔」の創建の折には、自らが靴を脱いで裸足で土を踏むなど、他の者と泥をかぶりながら共同で作業をしたとも伝わっています。

この事実を踏まえるのであれば光明天皇も大仏造立の重要な立役者であり、作者の一人として位置付けることができます。

行基とは?

「行基(ぎょうき)」とは、高い身分の僧侶だった人です。

大仏を作った人当時の時代では比較的、僧侶と言う身分が朝廷の力により優遇されていました。

しかし行基は自らの権力や財力を民の暮らしが良くなることだけにに使いました。

たとえば、行基は日本全国を練り歩き、田畑を耕す道具を開発して田畑を耕し、さらに貯水池を作るなど、民の生活向上ために尽力した僧侶です。

現在も日本全国各地に行基にまつわる史跡などが残されているのはこのためです。

その結果、「民を見方に付けて、朝廷への反逆の企てがある!」・・などと、朝廷から目をつけられてしまいます。

そして、今度は自らを加護していた朝廷から弾圧を受けるのです。

しかし今度は民が今ままで行基に受けた恩に報いるために結集し、行基を助けました。

この後、国中の民の力を背に受けた行基は、朝廷の力をねじ伏せてしまいます。

このような情勢を見た朝廷(聖武天皇)は、やむなく行基に「大僧正(僧侶の最高位の位。行基が日本で最初に就任した)」を与え、行基と民と和解をします。

その後、行基は聖武天皇より、最重要な国家プロジェクトである「奈良の大仏(東大寺)建立」の総責任者に任ぜられ、民の力を背につけた行基は、見事、大仏および大仏殿(金堂)を完成させることに成功します。

この多大な功績により、行基は東大寺の「四聖(ししょう)」に数えれ、現在に至ると言うワケです。

ちなみに、聖武天皇が発布した「大仏建立の詔」によって東大寺・大仏を作り始めたのは743年(天平15年)、そして752年(天平勝宝4年)に大仏殿および大仏が完成し、開眼供養が執り行われています。

しかし、行基は奈良県奈良市にある「菅原寺(すがわらでら/現在の喜光寺)」と言うお寺で749年(天平21年)に亡くなっています。

行基が没してから大仏完成までの3年間は聖武天皇が行基の志を汲んで先導し、752年(天平勝宝4年)に見事、東大寺の大仏(盧遮那仏)および大仏殿が完成を迎えています。

ただ、行基が没したのち人材不足・材料不足に陥り、大仏完成が危ぶまれたようですが、聖武天皇は民と共になんとか大仏を完成させようと「一枝の草、一にぎりの土を持ちて像を助けたらんと 情に願う者あらば恣にこれを許せ」と呼びかけたそうです。

この意味合いは、「とにかく誰でもいい。浄財の代わりに草や土しか寄進できないほど貧しい者でもかまわない。大仏建立事業に参加したい者あれば誰でもこれを許す。」となります。

以降、残念ながら東大寺の大仏さんは、1180年(治承4年/平安時代)と1567年(永禄10年/戦国時代)に焼失してしまい、2度も火災に見舞われることになります。

現在、見ることのできる大仏さんは1692年(元禄5年/江戸時代)に再建された時の姿です。

 

東大寺の大仏さんが作られた理由(目的)

東大寺の大仏さんが作られた聖武天皇の治政の時代(奈良時代)は、田畑で作物を育てる技術がなく、治水などの技術も乏しかったため、穀物が収穫できませんでした。

また、貴族などが覇権を争ったため戦も絶えず、挙句、疫病までもが蔓延し国民は疲弊していました。

このような惨状から、聖武天皇は大きな力でこの世を包み込むような形で人々を救いたいと願います。

そこで、登場してきたのが毘盧遮那仏がいる世界です。

盧遮那仏が座する蓮華蔵世界は巨大なので、仏様が大きければ大きいほど仏力も大きく、多くの人々を救済できると考えました。

蓮華蔵世界とは「れんげぞうせかい」と読み、これは千葉(せんよう/千枚)の大蓮華がある世界のことです。

そこで盧遮那仏の世界を現世に再現するべく、大仏さんが造立されることとなります。

東大寺大仏さんは何で立ってない?大仏さんが座り姿である理由とは??

毘盧遮那仏を造立するに際して問題が発生しました。その問題とは、毘盧遮那仏の高さが50mもあるということでした。

当時の技術では約50mもの直立した巨像を造る技術がなく、座像(約16m)であれば造立が可能であるという結論に至りました。

これが現在の東大寺大仏さんが坐像姿で造立された理由です。ウフ

東大寺の大仏さんの造立に使用された材料と材料の使用料

材料 重さ(量)
499トン
すず 8.5トン
水銀 2.5トン
440kg
1194m
人夫 約260万人

奈良の大仏さんが造立された当時の日本の全人口は、600万人から700万人ほどと云われています。

つまり、260万人ということは、当時の日本の人口の約40%もの人が大仏さんの造立の作業に従事していたということです。

現代では見当も付かないほどの、「途方もない規模の大事業であった」ということが理解できます。

 

東大寺の大仏さんのつくり方(造像方法/建築様式)

東大寺・大仏造立の現場指揮を執ったのが、国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ)と伝えられています。

大仏さんを造像する時は、大仏さんの足元から造像していきます。

以下でご紹介するのは、公麻呂が考案した造像方法になります。(以下、画像引用先:東大寺

まず、木組みを足元から組んでいきます。



組んだ木組み(=骨組み)に粘りの強い土(粘土)で、おおまかな大仏さんの形を作ります。(塑像)

しばらく、乾かして・・

この乾いた粘土を原型として、その外側に包む形でさらに粘土を塗り込んで鋳型(いがた)をつくります。鋳型は一般的には金属を使用した「金型」を使う方法と「砂型」といって砂を固めたものを使用する方法とがありますが、大仏造像の鋳型は「砂型」になります。

そして原型との間に隙間を空けるようにして粘土を塗りこんでこの鋳型をつくっていきます。


外側に塗り込んだ土(鋳型部分)が乾いたら鋳型だけをスッポリと原型から外します。

原型を少し削って隙間をつくります。大仏さんが巨大なので削って隙間を作るのは難しいことではありません。


削り終えたら「型持(かたもたせ)」といって銅を流し込む流路を固定する支えを挟みこみます。


できあがった隙間の部分に炉で溶かした「銅」を流し込みます。流し込むときは小刻みに少しずつ流し込みます。


全体に銅が行き渡ったところで、少し放置します。

銅が冷めて固まったところで1段目の完成です。今度は1段目に土を盛って一段上げて作業台を作ります。その後、次の部位(二段目)の鋳造に取り掛かります。

※造立作業が進んで上半身や頭部に行くにつれて、大仏さんの周りに土を盛っていきます。(山にしていきます)土を盛ることで作業台が必要なくなり作業がしやすくなります。

これを上半身まで繰り返し行います。(おおむね8回)



頭部まで行ったところで、山になった盛土を取っぱらうのと同時に、外側の粘土(鋳型)も崩していくと銅製の原型が現れます。

大仏さんの銅の表面に塗装をします。(鍍金を塗り込む)

完成です。

上記の工程を見る限りでは簡単そうに見えますが、実は長い長い期間がかかります。

なお、大仏さんの台座部分(蓮華座)は、大仏さんが完成した後に造られたと考えられています。

あまり知られていない!「金アマルガム技法」とは?

大仏造立の仕上げとなる鍍金の際には「金アマルガム技法」という方法が用いられています。

アマルガム」とは「水銀」と「金」を混ぜ合わせた金属です。製造方法としては「水銀」と「金」を「炉(熱)」で溶かして、乾いて固形状になったものが「アマルガム」です。

この「アマルガム」を「金メッキ」として利用し、大仏の表面にコーティングしていきます。

大仏造立事業は国を挙げての大事業でしたが、人足は確保できても材料までの調達は難しかったようで、金や水銀の採取は困難を極めたそうです。

このため、材料を採取するために日本のあらゆる地域から金や水銀が東大寺まで運ばれたそうです。

そして最終的には、なんと!400キロ以上もの金と2500キロもの水銀が用いられて、ようやく完成を迎えています。




東大寺の大仏さんの鋳造にかかった期間(年月)

原型作り

約1年

745年(天平17年)8月23日、平城京の東側「山金里(やまがねのさと)」にて大仏造立開始される。以降、746年(天平18年)10月6日、「燃灯供養」を迎えて完了する。

鋳造(銅を流す工程)

約2年

747年(天平19年)9月29日、大仏鋳造開始されて、749年(天平勝宝元年)10月24日に完了される。

螺髻(らけい)の制作

約1年半

749年(天平勝宝元年)12月から螺髻の制作が開始される。751年(天平勝宝3年)6月、螺髻の制作完了。

鋳加え作業(仕上げ作業/研磨・型の補正など)

約5年

上記、螺髻制作と並行する形で750年(天平勝宝2年)1月、大仏の鋳かけ(像全体の補正)作業が開始される。755年(天平勝宝7年)1月に鋳かけ作業終了。

台座の刻画

約5年

鋳かけ作業と並行する形で752年(天平勝宝4年)2月に台座の刻画(大仏蓮弁線図全体図)の制作が開始。756年(天平勝宝8年)7月29日台座の刻画が完成される。

仕上げ作業(鍍金の塗装)

約5年

上記、「鋳かけ作業」と「台座の刻画作業」と並行しながら、さらに752年(天平勝宝4年)3月14日から「鍍金作業」が開始。757年(天平宝字元年)5月2日、大仏と大仏殿(大仏殿院)が完成される。

他にも、東大寺の大仏さんの背中には、「光背(こうはい)」と呼ばれる大きな「輪っか」があります。この輪っかを作るのにも、それなりの期間を要します。

大仏さんの光背つくりの工期
  • 約8年半

当初の大仏さんの光背は木造でした。763年(天平宝字7年)頃から開始されて、771年(宝亀元年)に完成を迎えています。

現代の技術力なら、おそらくパパっ!パっ!パリっ!と、数年もかからずに簡単に出来てしまうような作業です。

ちなみに東大寺の大仏さんの造立の費用(建造費)ですが、なんと!!驚くことに現在の価値に換算して4657億円もかかったそうです!(関西大学大学院会計研究科しらべ)

東大寺の大仏の造立に携わった真の人物

東大寺大仏や大仏殿造立については、聖武天皇が発願して、行基が現場の責任者であったと云われております。

発願したのは確かに聖武天皇のようですが、行基が実際に作業したのでしょうか?

おそらく行基は聖武天皇の名代として、総指揮者として君臨していたハズです。

この理由は、例年3月に東大寺・二月堂で執り行われる「修二会(しゅにえ)」で理解することができます。

この修二会では、「過去帳」というものが読み上げられ、過去に東大寺に功績を残した人物や関連のある方々の名前が読み上げられます。

過去帳が読み上げられる時の一番最初には、実はなんと!!「東大寺の大仏を造立したとされる人物の名前が読み上げられている」のです。

東大寺・大仏殿の大仏の造立に携わったとされる人物

  • 大伽藍本願・聖武皇帝
  • 聖母皇大后宮・光明皇后
  • 行基菩薩
  • 本願・孝謙天皇
  • 藤原不比等右大臣(諸兄左大臣)
  • 僧正・根本良弁
  • 当院本願・実忠和尚
  • 大仏開眼導師・天竺菩提僧正
  • 供養講師・隆尊律師
  • 大仏脇士観音願主・尼信勝(信勝尼)
  • 同脇士虚空蔵願主・尼善光(善光尼)
造寺知識功課人(造立作業における各チームのキャプテン)

  • 大仏師・国公麻呂(だいぶっしくにのきみまろ)
  • 大鋳師・真国(だいいもじさねくに)
  • 高市真麿(たけちのさねまろ)
  • 鋳師・柿本男玉(いもじかきのもとのおだま)
  • 大工・猪名部百世(だいくいなべのももよ)
  • 小工・益田縄手(しょうくますだのただて)
材木知識(ざいもくのちしき):51590人
役夫知識(やくぶのちしき):166万5071人
金知識(こがねのちしき):37万2075人
役夫(やくぶ):51万4902人

「修二会・過去帳」名前の意味と人物の特定

「大伽藍本願・聖武皇帝」

「聖武皇帝」とは、「聖武天皇(しょうむてんのう)」のことです。「盧舎那仏造顕の詔(大仏の造立の発願)」を出した人です。
すなわち、直接、工事には関与していません。(天皇陛下ですので。)

「行基菩薩」

ご存知、日本全国を旅して田畑を耕し、治水を行い、国の礎を築いた人物(僧侶)です。日本中を転々と旅をして、その土地で上記のような慈善活動を行ったので、日本中の人々が行基に恩義を感じていました。

そして、行基の一声で大仏の造立のために日本全国から人々が集いました。これはお世話になった行基への恩返しのためです。

つまり、行基がいなければ大仏を造るのに相当な年月がかかっていたか、もしかすると、造れなかったかもしれません。

なお、行基に「菩薩」が付された理由は朝廷(聖武天皇)から「菩薩」という諡号(しごう/=功績を残した人物が死後に与えられる名前)が贈られたためです。

行基は日本中を練り歩いて慈善活動を行うことでたくさんの人々を救済しています。その上、大仏造立という国家プロジェクトを総責任者として遂行するなど、まさに「仏の化身」と感じた人も多かったハズです。そんな行基を尊崇する意味合いで「菩薩」を付けたのでしょう。

「大仏師・国公麻呂」

「国中公麻呂」もしくは「国中連公麻呂」という人物のことだと云われております。

この方は大仏の形を創作した人物だと云われており、他にも大仏殿の建築の責任者でもありました。

「大鋳師・真国、高市真麿、鋳師・柿本男玉」

漢字が並んでいて分かりにくいですが、3人の人物がいることを意味しています。この3人の中のラスボス的存在が「大鋳師・真国」だと云われております。
「大鋳師真国」とは「高市真国(たけちのさねくに)」という名前の人物だと云われております。
この3人が、抜群のチームワークをもって大仏の鋳造を担当し、また、自らが作業をすると共に、鋳造チームを率いていたのだと考えられいます。

「大工・猪名部百世、小工・益田縄手」

このお2人の人物は「大工」と「小工」との記述があります。

おそらく、大きい部品(大まか部分)の建築を「猪名部百世」が行い、細かな部分の建築を「益田縄手」という人物が中心になって行っていたのでは?・・と考えられます。

「東大寺要録・本願章第一」

東大寺には平安時代から伝承される古い書物があります。その書物の名前を「東大寺要録・本願章第一」通称「東大寺要録(とうだいじようろく)」と呼称し、本願・縁起・供養・諸院・諸会・諸宗・別当・封戸水田・末寺・雑事の10巻構成から成ります。本願章第一とは第1巻のことです。

1106年(平安時代)に編纂されていますが作者は不明、創建当初から平安時代あたりまでの東大寺のことがよく分かる資料だとされることから、国の重要文化財指定を受けています。

ちなみに、この書物によれば749年(天平勝宝元年)12月から751年(天平勝宝3年)6月に「螺髪の数は966個」という報告がされていたそうです。

しかし、2015年の調査では、螺髪の数が483個しかないことが判明していますが、これについては以下のような見解が述べられています。

  • 現在の大仏さんは江戸時代に再建されたもの。その時に造立の指揮にあたった人物が、その時代の流行りの作風(さくふう)を用いて造立した。
  • 数を数える担当の人物が数え間違えて記帳した。
  • 「奈良時代(創建時)の大仏さん」と「江戸時代再建の大仏さん」とでは大きさが異なっていた。

大仏殿と東大寺の伽藍

創建当初

創建当初の東大寺伽藍は、学説によれば「東大寺式伽藍」と呼称し、大仏殿である近藤くんを・・あイヤイヤイヤ金堂!!を中心として、その後方の両脇に「鐘楼」「経楼」を配し、その後方に「講堂」と、さらにその後方に東室(ひがしむろ)・北室(きたむろ)・西室(にしむろ)から成る「三面僧房」を備えます。

大仏殿手前には中門、そのさらに南側に「南大門」を備え、中門と南大門の中間地点の左右には金堂を挟み込む形で「仏塔」が配されています。中門を注文! …ふぅ

東大寺式伽藍図

画像引用先:コトバンク

このように中門と南大門の中間地点の両脇に西塔と東塔なる仏塔を双び塔として据える様式は、前例となる法隆寺には見られないものであり、東大寺特有のものであることから特別に「東大寺式伽藍」と呼ばれています。

なお、この東大寺の東西の仏塔は東大寺に伝わる古書「東大寺要録」によれば、かつて70mもの高さを備えた七重塔であったと伝えられており、これらの伽藍配置はおよそ789年(延暦8年)までには完成されていたと考えられています。

平安時代の大仏殿の伽藍

平安時代には、修二会の創始者である実忠(じっちゅう)が新たに回廊の造営、および食堂前を北向きに流れていた川の流路を南向きに変える工事を行っています。川の流路を変えた工事に関しては近年、食堂周辺の調査が行われ、わりと大規模な工事が実施されていた事実が明らかにされています。

現在の大仏殿の伽藍と創建当初の伽藍との比較

現在の大仏殿の伽藍は後方に、城郭に見られるよう「高麗門(こうらいもん)」が設けられ、周囲は芝の広場が取り巻いています。

出入口左右には比翼型の回廊が延びて中門に連絡して伽藍の様相を見せています。中門から大仏殿出入口までは一般参詣者が通行できる参道になっており、出入り口中央部には威風堂々と国宝の八角灯籠が置かれています。

八角灯籠の右脇には手水舎も設けられ、これらを芝の広場が取り巻いています。

上述したように、かつての大仏殿は後方に講堂とその後方と両脇に三面僧房を備えた当代きっての大伽藍でした。⬆️の伽藍配置図は現在までで明らかにされている東大寺式伽藍を現在の大仏殿伽藍に当てハメてみました。少々見づらいですが、あくまで参考程度にご覧ください。

かつての東大寺大仏殿の伽藍は回廊がさらに延びていて正倉院のあたりまで広がっていましたが、現在の回廊は東西ともに大仏殿の出入口付近に接続する形で終わっています。

現在では、「講堂跡」や「食堂跡」、「東塔(院)跡・西塔(院)跡」には案内板が立てらていますので、⬆️の地図を参考にしてしながら、ぞれぞれの場所まで行っていただければ分かると思います。

東大寺の大仏殿「二度の焼失と再建の道のり」

1180年(治承4年)の平重衡による南都焼討は「大仏さんが溶けるほどの業火だった」?!

大仏および大仏殿建立以降、1180年(治承4年)の平重衡による南都焼討は東大寺史上、最悪の出来事と言っても過言ではなく、大仏殿を中心としたその周辺を焼き尽くし、この時、大仏殿の2階に逃げ込んだ僧侶たち約1000人を含めて、大仏さんもろとも業火に飲み込まれています。

その結果、大仏さんの上半身は無残にも溶けて半壊状態となり、翌年の1181年(治承5年)に朝廷により再建計画が出されますが、この再建計画が思いもよらぬほどの困難が伴ったことをあまり知られていません。

困難を極めた治承の大仏再建

朝廷は、大仏再建計画の最高責任者として「藤原行隆」を任命しますが、その時、参加を申し出た僧侶がいました。この僧侶こそが「重源(ちょうげん)」です。

重源は、かつて大仏造立の現場指揮を担当し、見事、完成に導いた「行基(ぎょうき)」を深く尊敬していたこともあり、自らも行基のように勧進活動に身を投じたいと藤原行隆へ願い出ます。

藤原行隆と朝廷はこれを認めて重源を大勧進に任命し、1181年6月、大勧進&現場の最高監督に任命します。

現場の最高監督者となった重源は1181年10月に大仏さんのパンチパーマの部分となる「螺髪(らほつ)」の造立をはじめています。

しかし、大仏造立を行う技術者が不足していたことから、作業が進まず難航してしまいます。

そこで当時、九州博多に「中国の宋」出身の鋳物師(いもじ/金属を造形する技師)・「陳和卿(ちんなけい)」という鋳物師のプロ集団が来日していることを聞きつけ、「大仏造立のメンバーに加わってくれないか?」と打診し、これに成功します。

陳和卿は大陸の進んだ技術を用いて、まず、鋳造するための機械(装置)を製作し、次いで大仏さんを支える木組みを製作します。

その後、1183年2月に大仏さんの右手を完成させ、4月にはようやく頭部が据えられ、5月半ばには表面の研磨、1186年6月下旬にようやく身体部分の鋳造が終了し、一応、創建当初の像容を取り戻すことに成功しています。

残りは表面の金メッキコーティング(鍍金)だけになりましたが、ここで鍍金に使用する金の量がまったく足りない状況に陥ります。しかしこの時、破格の寄進をした人物が当時、平家打倒の真っ最中であった「源頼朝」と奥州(東北地方)の覇者「藤原秀衡」です。

この時、源頼朝は”千両”を寄進、藤原秀衡は”五千両”を寄進しています。

1185年(文治元年)の8月26日にようやく開眼供養が執り行われるはこびとなり、開眼師に東大寺の別当職であった「定遍(じょうへん)」をいただき、後白河法皇が開眼筆を取って盛大に営まれました。

1567年(永禄10年)には大仏さんのド頭が再び・・

このような苦労があってようやく再建が成った大仏さんにも、再び、災難が襲いかかります。

1567年(永禄10年)に足利義輝公を暗殺して畿内の覇権を牛耳った「三好三兄弟」と「松永久秀」との間に覇権争いが勃発し、この争いの兵火によって、大仏殿は再び焼失してしまいます。(大仏殿の戦い)

その際、大仏さんの首は焼け落ちて、再び、再建されることになりますが、画家の山田道安(やまだどうあん)の手で簡易的に「木造の銅張りの頭」が据えられています。

道安は1569年(永禄12年)に東大寺の惨状を見かねて大勧進を申し出て、まず、胴体の修復を行い、1572年(元亀3年)には頭部を銅板で修復したと伝えられています。

その後、1692年(元禄5年/江戸時代前期)、東大寺と同じ大乗仏教「南都六宗(なんとろくしゅう/りくしゅう)」の1派「三論宗(さんろんしゅう)」の僧侶「公慶(こうけい)上人」の尽力によって、大仏殿および大仏さんは再建されています。

 

大仏殿の横幅が縮められるほどの「困難を極めた江戸期の再建」

1684年(貞享元年)5月、徳川幕府へ公慶上人が大仏さんの修復工事および大仏殿の再建を打診します。その結果、「再建の資金は提供できないが勧進活動をしても良い」という許可が降りることになり、11月から勧進活動を開始しています。

その後の経過は次の通りです。

1686年2月

大仏さんの台座の蓮弁18枚、石造りの台座を新調。

1688年(元禄元年)

1億円の寄付金を集める。

1691年(元禄4年)1月

鎮守八幡宮(手向山八幡宮)の造営開始、8月に完成。

1691年2月

大仏の修復完了。集めた寄付金総額・約12億円。(約1万1200両)

1692年(元禄5年)

大仏開眼供養が執り行われる。大仏さんを拝むために日本全国から約30万もの人が奈良へ訪れる。道ゆく道は人だらけで大阪から奈良まで人の列が連なったとも。

1693年(元禄6年)

綱吉公の母親である桂昌院の祈願寺「護国寺(東京都文京区大塚5丁目)」の開山である「亮賢(りょうけん)」の知己の僧「筑波山知足院の住職・隆光(りゅうこう)」の取り成しによって、桂昌院(徳川綱吉の母親)に謁見。桂昌院、公慶の大仏再建活動に感銘を受ける。

1694年(元禄7年)

徳川綱吉より「公儀御普請(こうぎごふしん)」が日本全国の大名に発令され、これにより大仏殿および東大寺再建は幕府(将軍)直轄の事業と定められる。幕府の直轄事業となったことで全国の大名に対しての寄付金を出すように命令が下る。

  • 日本全国の大名からの寄付金:5万両(現在の価値で約50億円)
  • 江戸幕府からの寄付金:5万両

合計:10万両

当時の価値
  • 金一両=「米一石(60kg)/1文=25円」
  • 金一両=「銀60匁(もんめ)=銭4貫文=4000文」

なお、大仏殿再建にかかる資金がこれでも足りないことが計画書によって明らかにされており、公慶上人は引き続き勧進活動を行い、今度は西国へ赴いている。

創建当初の大仏殿を再建するための「面積・費用」

面積:11間
再建費用:18万両

訂正された大仏殿を再建するための「面積・費用」

面積:7間
再建費用:12万両

鎌倉時代の大仏殿(奈良時代創建の大仏殿)は、一目見るだけで、現在の江戸期再建の大仏殿と比較して横幅が広いことが分かります。幅だけ見ても今より30mほど大きい建物でした。

奈良時代・鎌倉時代・江戸時代の大仏殿の大きさの比較

創建時(奈良時代)の東大寺の大仏殿の大きさ

  • 正面:86.1m/11間
  • 奥行き:52m
  • 高さ:47m
  • 創建者:聖武天皇
再建時(鎌倉時代)の東大寺の大仏殿の大きさ

  • 正面:86.1m/11間
  • 奥行き:50.5m
  • 高さ:46.3m
  • 大勧進&再建指揮者:重源上人

※奈良時代とほぼ同じ

えぇっ?!東大寺・大仏殿の奈良時代と現在の大仏殿の大きさ(サイズ)が違っていたって?!

現在の東大寺(江戸時代再建)の大仏殿の大きさ

  • 正面:57m/7間
  • 奥行き:50.5m
  • 高さ:49.1m
  • 大勧進:公慶上人/指揮者:南都奉行所

江戸時代再建の時も創建当初の大仏殿を継承する形で当初、「横幅11間」で再建計画が進行される予定でした。しかし幕府サイドで資金的に無理との判断が成され「7間」に変更を余儀なくされています。

そこで公慶上人はせめてもの思いで「9間」という計画案を出しますが、これも却下されます。しかし、これを知った時の将軍・綱吉公は「それではいかん!」と身銭で白銀1万両投じますが、結局これでも焼け石に水、最終的に7間で着地しています。

1697年(元禄10年)

1697年4月25日、大仏殿の工事開始。

1705年(宝永2年)

大仏殿上棟式(おおむね完成)。大勧進・公慶上人、亡くなる。

1708年(宝永5年)

6月26日、南都奉行所より、公慶上人の弟子「公盛(こうせい」が公慶上人の後継者として大勧進に任命される。

1709年(宝永6年)

大仏殿完成。落慶供養。

1714年(正徳4年)

中門が完成。

1738年(元文3年)

廻廊が完成

1739年(元文4年)

1739年(元文4年)5月16日、大仏さんの光背(背中の輪っか)が完成する。

 


  • 造営期間:26年(大仏殿のみ)、52年(廻廊まで含める)
  • 総工費:12万両(約120億円)

一説によれば公慶上人は大仏再建開始から大仏殿上棟式までの間、横たわって寝ることはなかったそうです。「大仏殿再建」という祈願成就までの功徳を積み上げる修行と心得て、毎日、座りながら寝たと伝わっています。

そして1705年(宝永2年)7月12日、大仏殿の上棟を知り少し安心されたのか、横たわってそのまま眠るように入定されたとのことです。

【補足①】鎌倉再建時の大仏殿の内部図

下図は鎌倉時代の大仏殿再建の折、重源上人が作成したとされる「大仏殿内部の指示書」になります。(1284年/弘安7年【重要文化財】)

画像引用先:https://ci.nii.ac.jp/(醍醐寺収蔵・大仏殿図【重要文化財】)

  1. 盧舎那仏(大仏さん)
  2. 金剛界堂
  3. 胎蔵界堂
  4. 如意輪観音
  5. 虚空蔵菩薩
  6. 東方天(持国天)※建久6年8月/運慶作
  7. 南方天(増長天)※建久6年8月/運慶作
  8. 西方天(広目天)※建久6年8月/運慶作
  9. 北方天(多聞天)※建久6年8月/運慶作

重源上人による鎌倉期の再建では、大仏殿内部に新たに密教的な要素が組み込まれています。

ちょっと上⬆️の写真をご覧ください。

大仏さんが座す蓮華座を中心に据え、東側(右側)に「2.金剛界堂」、西側(左側)に「3.胎蔵界堂」という「両界堂」が見えます。これらの各お堂の中には「曼荼羅(金剛界・胎蔵界)」が飾られたようです。

さらに各々のお堂に真言八祖像を配し、中央の盧舎那仏を大日如来とすることで密教世界の「両界曼荼羅(りょうかいまんだら)」の様相を実現しています。

ここで不思議なのが、通例では大日如来を中心として「胎蔵界は正面からみて左側」、「金剛界は右側」に配されますが、重源上人の工事指示書では逆になっています。

これらの要素は創建時や公慶上人による江戸期の再建時には見られなかったものです。

江戸期の再建で取り入れられなかった理由は、公慶上人が重源上人に尊敬の念を抱いていた事実から察して、江戸期は単に予算上の都合が原因だと考えられます。(江戸期再建の大仏殿は資金難により横幅が約30m縮小された)

【補足②】大仏殿の建築様式と内部構造

大仏殿が「大仏様」の由来。でも今は折衷様。

東大寺大仏殿は、南大門と並び、重源上人が宋から持ち帰った建築技術を駆使した「大仏様」と呼ばれる建築様式の建物です。

大仏殿に関しては、江戸時代の再建の際に、大仏様に和様、禅宗様を取り入れた折衷様の建物となっていますが、それでもなお、随所に大仏様建築の特徴が表れています。

例えば、軒下に見える六手先の組み物や、構造補強のための多数の貫は、大仏様の建物の特徴です。

一方、天井板をはめ、さらに格子を取り付けた格天井は、和様の建物の特徴です。

重~い屋根を支える大仏殿、内部構造の秘密とは?

大仏殿は大きな建物なので、もちろん屋根も大きく、なんと約13万枚もの瓦が使われています。

こんなに多くの瓦を使っているということで、屋根の重さはおよそ3020トン・・!

この、重~い屋根を支える必要があるため、大仏殿には、次のような技術が使用されています。

  • 屋根瓦の重量軽減のため、瓦の枚数削減!
  • 江戸時代に考案された加重を柱で受ける技術「集成材」を採用!
  • 入手困難!でも強度があり耐久性の高い”アカマツ”の虹梁を採用!
  • 明治期の最新技術「鉄筋トラス」を輸入!

東大寺南大門と「大仏様」の特徴について詳しくは、当サイトの以下のページ↓でご紹介しています。
 奈良・東大寺の南大門の「見どころ(建築様式など)・歴史・大きさ・作った人(地図・写真つき)」

東大寺大仏殿の建築様式や内部構造について詳しくは、当サイトの以下のページ↓でご紹介しています。
 奈良・東大寺の大仏殿の「屋根・瓦・鴟尾」と、柱の「由来・意味・歴史・輸送方法」など

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