東大寺大仏殿の屋根(瓦や鴟尾)と柱の歴史(輸送方法)などを….知ってみる❓

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東大寺大仏殿は度重なる焼失と再建を繰り返し、ついに戦国時代(室町時代)から江戸時代にかけての約140年もの間、再建されることがありませんでした。

そして140年経た江戸時代に「大勧進・公慶上人」と「5代目将軍・徳川綱吉」の寄進によって、ようやく大仏殿の再建が成っています。

つまり、140年もの間、大仏殿の内部で祀られている大仏さんは外で雨風に晒されていたことになります。

以下では、巨大な木造建築がどのような技術により支えられているのかという「内部構造」にもスポットを当て、主に江戸時代以降の大仏殿の歴史、屋根、その屋根を支える柱の造られ方、輸送方法などをご紹介しましょう!

東大寺大仏殿の屋根の重さはなんと!『3020トン』もある?!

東大寺大仏殿の屋根の重さは、3020トンもある?! (2)

東大寺の大仏さんを雨風から守っている大仏殿の屋根の総重量はなぁんと!3020トンもあるそうです。

さらに瓦の総合計枚数はなんとぉぅぉぅ!!約13万枚!!もあるそうです!

さらに、なんとぉぅぉぅぉぅぉ..ゴホっ。..ぅぉぅぉっ!!瓦だけの重量で1500トン!!もあると言うじゃ・・ア~りませんか!

また、大仏殿の屋根は江戸時代の再築の際に「鳥衾瓦(とりぶすまがわら)」を、金色の「鴟尾(しび)」に替えたと言われています。

鳥衾瓦(とりぶすまがわら)とは?

東大寺大仏殿の屋根の重さは、3020トンもある?!鳥衾瓦(とりぶすまがわら)の「鳥衾」とは、鬼瓦の上などに付ける、反るような形の、長く突き出した円筒状の瓦のことを言います。

「衾」とは「ふすま」と読み、これは平安時代の寝る時に着用する衣服のような意味合いがあり、現代風に例えると「寝巻き」や「ネグリジェ」がこれに該当します。

この「衾」に「鳥」を付すことで「鳥が寝る場所」という意味合いになります。
これはつまり、鬼瓦を「鬼門封じ」や「厄除け」のための神聖なものと捉えて、鬼瓦を鳥のクソ(うんこ)で汚さないようにしていると考えることができます。
このことから、「雀瓦(すずめがわら)」と呼称する地域もあるようです。

鴟尾(しび)とは?

東大寺・鴟尾・尿瓶鴟尾(しび)とは、屋根の中央部にある「大棟」と呼ばれる、屋根を支える太い木の両端に付けられた「飾り」です。

有名なのが、名古屋城にある「金のシャチホコ」です。

鴟尾は中国大陸から伝わったものです。
中国では鴟尾を水の象徴でもある魚の形にして、「火除け(=防火)の御守り」としたそうです。
また「鯱(しゃち)」という水を自在に操ることのできる「伝説の怪魚」が中国では古くから伝承されており、鴟尾の形は、この鯱に由来しているとも云われています。
名古屋城の「シャチホコ」もこの鯱(しゃち)の名前になぞらえたものです。
魚が水面から飛び上がり、尾っぽを水面に出したもので、屋根が水面だとすると、水面下にある建物は燃えないと考えられているようです。

大仏殿の鴟尾の大きさ

高さ:3.3m
胴部分の長さ:2.5m
横幅:1.4m
重さ:1.8トン(1個)

使用されている金箔の量

14㎝角の金箔を二重押し:1万400枚(780g)

大仏殿の鴟尾は明治の大修理の際に取り付けられた「木製の銅板」が貼り付けられたもので、その銅板全体に金箔を押したのが現在見ることのできる金色に光り輝く鴟尾です。

この鴟尾は地元奈良の名漆工「吉田立斎(よしだりっさい)」という人物です。使用された金箔は述べ4800枚にもおよび、およそ100日かけて金箔押しをしたようです。




重~い屋根を支える大仏殿、内部構造の秘密とは?

3020トンっ!の屋根を支える必要があるため、大仏殿には、次のような技術が使用されています。

  • 屋根瓦の重量軽減のため、瓦の枚数削減!
  • 江戸時代に考案された加重を柱で受ける技術「集成材」を採用!
  • 入手困難!でも強度があり耐久性の高い”アカマツ”の虹梁を採用!
  • 明治期の最新技術「鉄筋トラス」を輸入!

以下では大仏殿の屋根と、その大屋根を支えている柱に関してご紹介しています。

虹梁(こうりょう)とは?

虹梁(こうりょう)とは、屋根を支えるために、木を支えられる形に加工したものです。
その形が、虹(にじ)のように反りがあることから、この名前が付いています。
高さの違う屋根を均一に支えるために、屋根に合わせてこのような形になったと思われます。

虹梁(こうりょう)とは?

大仏殿の屋根を支える2本の「虹梁(こうりょう)」は、それぞれ23.5mの「アカマツ」が使われています。

 柱の建築技法「集成材」

大仏殿の内部の柱をよく見ると柱に割れ目があるのに気づきます。

この割れ目を天井まで目で追っていくと、天井まで割れ目が続いているのが視認できます。

⬆️写真を見れば分かるようにたくさんの別木があてられている。

本来、柱は一材から切出した1本の木を用いますが、大仏殿の柱に割れ目がある理由は1本の柱の周囲に別木を充てて補強しているからです。

「集成材」とは、このように1本の柱の芯となる「槻(つき)」の周囲に別木を複数、継ぎあてて1本の柱を補強する技術のことであり、江戸時代の再建の時に考案されて用いられています。

別木をしっかりと固定するため、柱には鉄釘銅輪が用いられています。

⬆️銅輪

このように現在見ることができる大仏殿内に設けられた柱1本1本も、その江戸時代の再建時の偉大な遺構の1つと言えます。

集成材が用いられた理由

このような集成材が用いられた理由の1つに、樹齢数百年規模の用材の確保が困難であったことが挙げられます。

後述するたった2本のアカマツの巨木でさえ、わざわざ遠く南九州からこの東大寺まで海上と川下りを利用して輸送しています。

時代を経るにつれ、大きな木が手に入りにくくなっていきますので、やむなく樹齢の若い木を補強材として採用する必要があったといえます。

樹木は縦ジワが縦方向にたなびくために、上からの加重に対して耐久度を発揮します。たとえ割り裂いたとはいえ、補強材として用いればそれなりの耐久度が備わり、すなわち1本の巨大な柱に見立てることができるというワケです。

ただし、横からの加重に対しては弱いので、例えば、大屋根を支える横木となる「虹梁(こうりょう)」には、後述するようなアカマツの巨木が使用されています。

日向国(宮崎県)から大和国までアカマツを輸送した経路↑大仏殿の虹梁の場所(赤印)

東大寺大仏殿の2本の虹梁の大きさ

  • 直径(太さ):約1.3m
  • 長さ:約23.6m
  • 重さ:約23t

 柱の材料「アカマツ」

えぇっ?!東大寺は本当は存在していなかったかもしれない?!

1709年(宝永6年)の江戸期の東大寺再建において、大仏殿再建の構想が持ち上がった当初、当時の建造物で3020トンもの屋根の重量を支えきれるだけの用材(木)や技術がありませんでした。

そこで採用された戦法であり技術が、上述した「集成材」です。

ただし、集成材は横からの加重には耐久性が低いので、屋根を支える重要な横木である「虹梁」部分に用いるのは不向きです。そこで当初、大仏殿の再建はやはり不可能との声が上がり、中止の話まで持ち上がったようです。

ただ、大仏殿の再建は幕府主導による国家重要プロジェクトに位置付けられましたので「できない」となれば幕府のメンツは丸つぶれになります。よって容易く中止などできず、江戸時代では入手不可能と言われた巨木を探すプロジェクトが進行されます。

そして長期間を要して探した結果、1704年(宝永元年)にやっとの思いで探し当てることができたのが、日向国(宮崎県)にある霧島山・白鳥神社の付近に群生していた”アカマツの巨木”になります。

しかし、ここで問題が持ち上がります。

この巨木を九州から山々に囲まれた奈良県まで、どうやって運ぶのか?と、言うことです。

輸送できるのかが危ぶまれる中、輸送の計画は進み、アカマツの切り出しから開始されることとなりました。

巨木の種類は「アカマツ」と言う、種類の木で、1704年に日向国(宮崎県)にある霧島山の白鳥神社の付近に育っていたいたそう

1本目のアカマツ

切り出されたアカマツの長さ(大きさ)

  • 全長:約54m
  • 横幅:直系約1.3m
  • 重さ推定:23.2t

アカマツを切り出すまでに必要だった人の人数

  • 木こり90人

アカマツを切り出すのに消費した日数

  • 4日間

2本目のアカマツ

切り出されたアカマツの長さ(大きさ)

  • 全長:約54m
  • 横幅:直系約1.2m
  • 重さ:推定:20.4t

アカマツを切り出すまでに必要だった人の人数

  • 木こり:100人

アカマツを切り出すのに消費した日数

  • 3日間

切り出すの消費したアカマツ1本分の値段

  • 2000両(現在の価格にして約2億5000万円)




日向国(宮崎県)から大和国までアカマツを輸送した経路

宮崎県の山奥から奈良県までの輸送は難航を極めるものでした。輸送の道中で命を落としたり、行方不明となる者も数多く出ました。

1703年1月7日「霧島山・白鳥神社(えびの市)」を(陸路)出発

↓(1日860人と牛40頭の力で引きずりながら輸送)

5月4日、薩摩湾岸・国分新川口港(現在の隼人港)に到着

ここまで輸送距離・人足
  • 98.2 km
  • のべ10万人/牛4000頭
到着まで消費した日数
  • 115日(約4ヶ月)

5月17日、国分新川口港(隼人港)を出発(海上輸送)

↓5月19日鹿児島に到着
(全長30メートルほどの大型船「千石船」へアカマツを乗せて海路で輸送開始)
↓6月21日、山川港(2週間停泊)
↓7月5日、日向細島港を出発

↓豊予海峡
↓瀬戸内海
↓7月12日、兵庫港(兵庫県)に到着

大阪伝法川口(港)

ここまでの瀬戸内海航海期間
  • 約2か月

大阪伝法川口港から川船に積みかえて川で輸送を開始

↓淀川をのぼり(のべ4600人を動員)
↓木津川を下る
8月10日、木津へ到着(ここからは陸路。のべ1万7千人で”寄進引き”)

↓奈良坂を越える

9月5日、東大寺へ到着

ここまでの陸路でかかった人足
  • のべ2万1600人
ここまでの陸路でかかった日数
  • 約2か月
総・輸送距離

  • 3338 km
総・輸送期間

  • 約8か月

このようにアカマツの輸送には多大な人手と時間を要し、中には「寄進引き」と言って、大仏さんの信仰に対する厚意でアカマツの輸送に参加された方も連日、数千人近くいました。

しかし当時の輸送技術では、九州から奈良まで輸送は困難を極め、残念ながら途中で大勢の方がお亡くなりになりました。

東大寺の柱の1本1本は、たくさんの方々の命や血と汗、色んな思いが詰まった柱です。

東大寺へ行かれた際は大仏さんだけではなく、どうかこの柱もじっくりと見学して、大勢の英霊たちのご冥福をお祈りください。

明治時代についに!まさか?!・・どうする?

江戸時代に考案された集成材の技術ですが、明治時代を迎える頃にはボロが出はじめて、いよいよ大屋根が波打つように型崩れしはじめます。

⬆️屋根が波を打つように崩れかかっているのが視認できる。(明治43年記録)

つまり、3020tもの巨大な屋根を支える柱たちにもいよいよ限界点が生じ、倒壊の危険性が懸念されはじめました。

そこで本来であれば、江戸時代のように巨大な柱を新たに据えて・・→再建という話になりますが、いつの時代も問題となるのは「柱に用いるための巨木」です。

古代のように原生林が存在して巨木がウヨウヨ、ウっヨっ!ウっ、ヨっ!ホっ!・・とそこら中に群生しているわけではありません。こホンっ!

そこで、やむなく採択された案が現代技術の集大成とも言える「鉄骨」を用いる手法です。

東大寺・大仏殿に初めて据えられた「鉄骨トラス」

上述したように鉄骨自体は細いですが、鉄なので耐久度だけにフォーカスすれば樹木をしのぎます。

そこで、鉄骨をトラス状(あやとり状)に組み上げて、それを1本の巨木に見立てて虹梁に据えるプランが採用されます。

↑鉄筋のトラス組み

この鉄骨はイギリスから輸入した「SHELTONSTEEL(シェルトン・スチール)社」製の鉄骨であり、すでにトラス組みされた鉄骨をそのまま仕入れています。

明治時代では硬度が備わった最新型の鉄骨だったようです。

通例であれば国宝・重要文化財などのいわゆる文化財には指定要件のこともあり、鉄骨を用いるのは論外です。

しかし、用材が確保できない以上、鉄骨を採用しなければ大仏殿はいずれ倒壊に至り、存続することすらままならない状況になりますので、苦渋の選択であったと言えます。

したがって、このような文化財に鉄骨を用いた修復例は過去に存在せず、すなわちこの東大寺大仏殿が日本史上における初例となっています。

11年間にもおよんだ明治の大修理!その内容とは?

鉄骨トラスの導入!

この最新型の鉄骨を据えるために、1903年(明治36年)から「明治時代の大仏殿の大修理」が開始され、ぬぅあんとぉぅ!!およそ11年間もの歳月を要して完成しています。

この大修理では、鉄骨トラスを据えることが第一の目的ですが、並行して各柱の補強と、屋根の荷重の軽減も行われています。

また、この明治の大修理によって、虹梁に用いられたアカマツが経年劣化で50㎝もソリ曲がっていたことが判明しており、大屋根が型崩れを起こしていた原因も明らかになっています。

主な修理内容としては、江戸時代に据えられた虹梁は撤去せずに、真下を添わせて補強する形で鉄骨トラスが新たに据えられています。(↓内部写真)

画像引用先:県民だより奈良

今日、奈良の大仏さんは奈良時代から伝わる国宝・盧舎那仏として広く知られ、日本中から多くの参拝者がこの大仏殿に訪れています。

これら多くの参拝者が太古から存在する威容感に満ち溢れた大仏殿に感服し、満足気に帰途につかれる背景として、屋根裏には実はこのような鉄骨が用いられている事実を知る人はごくわずかだと思います。

本来であれば、鉄骨が目に見えてもオカシクはないのですが、明治の大修理のもう1つの目標として「歴史的建造物として著名な国宝・大仏殿。可能なかぎり鉄骨を見えないように配慮すること!」が掲げられています。

耐久度を考慮した上で鉄骨を見えないようにするためには、かなりの知恵や技術が必要になります。このような職人さんや東大寺の配慮にもどうか気に留めていただき、大仏殿がたくさんの人の知恵や建築技術の結晶で成り建っていることも知っておいてください。ウフ

枚数が減らされた大仏殿の屋根瓦

明治の大修理のもう1つの目標は大仏殿の瓦の枚数を減らすことでした。知らない方がほとんどだと思いますが、大仏殿は建物が大きい分、比例して屋根瓦も特大サイズのものが使用されています。

なんとぉぅ!ぉぅっ、通常の神社仏閣で使用される屋根瓦(平瓦/一辺約28㎝)の約2倍となる55㎝もの屋根瓦が使用されています。つまり、その分、重量も通常の神社仏閣の屋根瓦と比較して2倍近くになるわけです。

そこで屋根瓦の枚数を軽減する案が採用されるわけですが、その際、敷き詰められた瓦の間隔を限界まで広げて番線で繫ぎ止める方法で全体数の軽減をしています。

そしてその結果、なんと!11万2589枚となり、江戸時代の再建時より2万枚近くの軽減に成功しています。

以上の流れから、現在の大仏殿の瓦は実際には約13万枚まではなく、正式には「約11万枚」ということになります。

鳥衾から鴟尾へ変更された!

創建当初以降の大仏殿には上述の「鳥衾(とりぶすま)」が据えられていましたが、この明治の大修理で「金色の鴟尾(しび)」に変更されています。

鴟尾を据えた理由は、「天平時代の名残り県内随所に残す古都・奈良。金色の天平を彷彿とさせる鴟尾こそふさわしい」などの理由で付け替えがなされています。

鴟尾の形状は同じ奈良県内にある唐招提寺の鴟尾もモチーフの1つとして採用されたようです。

【参考】明治の大修理の費用と参加職人数

費用:72万8429円(現在の貨幣価値にして約8億円)
参加職人数:24万6千人




6年かかった昭和の大修理!!

1974年(昭和49年)から1980年(昭和55年)にかけては、開山・良弁僧正没後1200年の記念事業として、70年ぶりの大修理となる「昭和の大修理」が行われました。

昭和の大修理の主たる目的は、雨漏りがひどくなった屋根の葺替えでしたが、終わってみれば、ほぼ、明治の大修理の手直し作業となっています。

約7,900㎡(標準的なサッカー場7140㎡より広い・・!)という巨大な屋根の約11万枚の瓦を葺き替える作業に、工事費34億円以上が費やされました。

約11万枚の瓦を葺き替える作業方法

まず、工事中の大仏殿を守るため、また、足場とするため、大仏殿を「素屋根(須屋根)」で覆う工事が行われました。

この際は、大仏殿に触れずに覆いをするため、建物の横で素屋根を組み立てて、レールの上を大仏殿めがけて押していく「スライド工法」が採用されました。

素屋根を乗せた鉄骨のやぐらは縦横32m×79m、高さ55m、重さ720tという巨大なもので、3日間かけて移動され、素屋根の工事だけで14億4千万円かかったといいます。

そして、いよいよ工事本番です。

まず、瓦やその下の野地板を1枚ずつ丁寧にはがし、痛みが激しい江戸・明治期の垂木を取り替え、新しい瓦を乗せていきます。

この時、従来の瓦よりも軽いものが選ばれました。

上述した明治の大修理の際、屋根を軽くする目的で瓦の数を減らしたため瓦同士が重なる部分が少なくなり、雨漏りの原因となっていたのです。

昭和の大修理では、瓦を軽量なものに変えることで、瓦の数を減らさなくても建物への負担を軽減できるように考慮され、瓦の数・重なりは明治の大修理以前の状態に戻されました。

雨漏れに関しては、雨漏れが原因で柱をはじめとした構造材が腐朽化していたので、屋根瓦の下に銅板を据えて雨漏れを防ぐ設計が採られています。

さらに、明治の大修理の際に設置された鴟尾の補修や、屋根裏の消火設備の設置も行われました。

鴟尾の補修

屋根の大棟の両脇に据えられた鴟尾も、度重なる落雷を受けた痕だと思われる穴が複数、空いており、この穴から雨漏れがあって芯柱の腐朽が見られたため、鴟尾も修繕されています。

特に向かいみて左側の鴟尾は損傷がはげしく、一旦、屋根から降ろされて修理できるかの診断がされましたが、修理不可能とされたので前回の鴟尾をモチーフとして新造されています。

大仏殿の鴟尾の大きさ

高さ:3.3m
胴部分の長さ:2.5m
横幅:1.4m
重さ:1.8トン(1個)

使用された金箔の量

14㎝角の金箔を二重押し:1万400枚(780g)

【参考】昭和の大修理の費用と参加職人数

費用:37億万4585万円
参加職人数:10万3千人

【補足1】大仏殿の建築様式は「大仏様」??

鎌倉時代、和様建築だった初代の大仏殿を再建するに当たっては、重源上人が留学先の中国(宋)で学んだ、日本ではまだ新しいスタイルが取り入れられました。

その時の建築様式は、現在、大仏殿の名前を取って「大仏様(だいぶつよう、天竺様)」と呼ばれていますが、実は、現存する大仏殿は純粋な大仏様の建築ではなくなっています。

その理由は江戸時代に再建された時に、和様、禅宗様なども取り入れた折衷様が採用されたためです。

東大寺・大仏殿で「大仏様」の特徴が表れている部分

貫が多用されている

建物の構造強化のため、柱と柱の間に入っている横木(水平材)が「貫」です。

貫は、大仏殿造立のため、重源上人が持ち込んだ、当時の最新技術の1つです。

また、既にご紹介した巨大な虹梁も、大仏様の建物の特徴の1つです。

 斗栱が六手先になっている

柱から飛び出している、「斗(ます)」と「肘木(ひじき、栱)」を組み合わせた部分を、斗栱(ときょう、枓栱)といいます。

この斗栱がいくつか重なっていると、重なる個数に応じて三手先(みてさき)、六手先(むてさき)などと呼ばれます。

六手先の斗栱は、東大寺の大仏殿と南大門のみに見られる、これぞ大仏様!とも言える意匠です。

大仏殿の六手先の出組
 斗栱が「挿肘木」になっている

斗栱が「挿肘木(さしひじき)」になっているというのも、大仏様の特徴の1つです。

肘木には構造別にいくつかの種類がありますが、柱の上に他のパーツと一緒に組み合わせて乗せられているのではなく、柱に挿し込まれているというのが、大仏様の肘木の特徴です。

 シンプルな木鼻

貫などが柱から突き出した部分を木鼻(きばな)と言います。

こちらも鎌倉時代に用いられるようになったもので、大仏様が伝わる前の和様と呼ばれる建築様式の建物には、基本的には木鼻はありません。

鎌倉時代の木鼻はまだシンプルで、波型に加工されているくらいでしたが、時代が下るにつれて装飾的になり、江戸時代になると獅子などの彫刻が施されることも増えました。

東大寺・大仏殿の木鼻は、建物内部のものは比較的シンプルな「大仏様木鼻」と呼べそうな見た目ですが、外側の木鼻は渦巻きのデザインになっています。

この渦巻き型木鼻は、どちらかと言うと同時代に禅宗寺院で流行った建築様式(禅宗様)の「禅宗様木鼻」に近い形となっています。

東大寺南大門と「大仏様」の特徴について詳しくは、当サイトの以下のページ↓でご紹介しています。

 奈良・東大寺の南大門の「見どころ(建築様式など)・歴史・大きさ・作った人(地図・写真つき)」

東大寺・大仏殿で「和様」の特徴が表れている部分

奈良時代に造営された当初の大仏殿は、和様の建物だったと言われています。

ただ、和様の建築様式で東大寺の大仏殿ほどの大きな建物を造るとなると、強度に問題があったため、鎌倉時代に再建された際には、宋からの最新技術を駆使した、通称「大仏様」が用いられることになり、さらに江戸時代には良いとこ取りの折衷様が採用されたという経緯があります。

果たして、古き良き「和様」の特徴は、どこに生かされているのでしょうか?

 格天井

大仏様建築の天井と言えば、南大門のように、構造物がむき出しであるという特徴がありますが、東大寺大仏殿の天井には天井板が張られています。

鎌倉時代に再建された大仏殿は天井板がなく、屋根の下の構造物が露出した大仏様らしい造りとなっていましたが、江戸時代の再建時にそちらの意匠は変更されたようです。

格子型に組まれた枠縁がある天井を「格天井(ごうてんじょう)」と言い、さらに、大仏殿の天井のように、枠縁の中に小さな格子が入っているものを、特に「小組格天井(こぐみごうてんじょう)」と言います。

大仏殿の小組格天井

この格天井は、和様建築の特徴です。

現在の大仏殿には、裳階部分から最も高い部分まで、建物内の空間が段階的に狭くなるように、天井板が張られています。

新旧大仏殿の内部比較

  • 左:鎌倉時代に再建された大仏殿の図。天井に板が張られず、開放的。(大仏様)
  • 右:江戸時代に再建された現存する大仏殿の図。裳階部分から中央にかけて三段階に天井板が張られている。(和様)




【補足2】大仏殿は最大の木造建築?

かつて、東大寺大仏殿は「世界最大の木造建築」とされていましたが、近代以降、大仏殿にも用いられている「集成材」を始めとする建築資材や技術の発達により、より大きな木造建築も登場しています。

それでも現在、「木造軸組建築」としては世界最大とされています。また、大仏殿の建物自体の大きさは有名ですが、大きいのは外見ばかりではありません。

実は、大仏さまが鎮座する「空間」も注目すべき広さなのです。

当たり前ですが、大仏さまがいる場所に柱を立てることはできません。

この柱が無い空間(無柱空間)の広さは、縦横約23m×23m、高さ約28mで、日本最大の広さなのだそうです。

23m四方と言うと、大体、テニスコート2面分くらいの広さです。

高さ28mは、ビルの1階あたりの外観の高さを3mほどとすると、9階から10階の高さに相当します。

こちらのページでは、大仏殿の重い屋根を支えるための内部構造の特徴を色々とご紹介しましたが、それは、巨大な大仏さまのための「空間」作りにも、一役買っていることがわかります。

木造軸組建築とは?

木造(木構造)建築には、いくつかの種類があり、その中の1つが木造軸組構法で建てられた「木造軸組建築」です。

木造軸組構法は、伝統的な木造建築の工法を発展させたもので、日本の住居によく用いられています。

木造軸組建築では、梁と柱、筋交(すじかい:用材をクロスさせる方法)などで、建物を支えているのが特徴です。

木造建築の構法には、他に「木造枠組壁構法」というものもあります。

梁や柱といった「軸(線)」で建物を支える木造軸組建築に対し、木造枠組壁建築は、壁や床などの「面」で支えるという特徴があります。

木造枠組壁構法では、建物の主要な部分に丈夫な「構造用合板(こうぞうようごうはん)」を用いることで、建物を大きく、頑丈にすることが可能となっています。

大仏殿は1階建て?2階建て?

ここまで読んだあなたなら、もうお気づきと思いますが、東大寺の大仏殿は1階建ての建物です。

大仏さまの頭がつかえないように非常に背の高い建物になっていますが、2階があるわけではありません。

とはいえ、「外から見ると2階建てのようだけれど・・?」と思うのもまた、ごもっとも。

なぜなら大仏殿には屋根が2重に付いているからです。

でもこの2重屋根の下の部分は、裳階(もこし)と呼ばれる庇(ひさし)です。

ですから、中に入れば一目瞭然、天井は完全に吹き抜け状態で、上の階はありません。

終わりに・・

大仏殿の歴史や大仏以外の仏像・見どころについては、当サイトの以下のページ↓でご紹介しています。

 奈良・東大寺の大仏殿の「由来・歴史・見どころ・仏像(画像付き)」でご説明!

東大寺の大仏さんについては、当サイトの以下のページ↓をご覧ください。

 奈良・東大寺の大仏の「大きさ(高さ・重さ)・名前・歴史・特徴」(画像・写真付き)
 奈良・東大寺の大仏と大仏殿を作った人・作り方・作った理由って??

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