東大寺大仏殿の最大の見どころとは❓

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東大寺大仏殿は世界最大の木造建造物として知られていますが、その大仏殿を取り囲む伽藍も広大です。大仏殿の伽藍、つまり大仏殿を取り巻く庭や回廊には様々な見どころとなるものがあります。

以下では大仏殿のあまり目がいかない見どころから、メジャーな見どころであれば少し掘り下げて、より詳しい歴史や由緒などを織り交ぜてご紹介していきたいと思います。

大仏殿の外(周囲)の見どころ

東大寺 中門

現在の大仏殿拝観出入口は、中門(ちゅうもん)から連接された東西の廻廊となることから、中門はあまり目立たない存在の門となっています。しかし、創建以降は金堂を守護する重要な意味合いを持つ門でした。

特に創建当初は入母屋造りの二重門であった事実からしても、その重要度が伝わってきます。

では現在の中門の見どころや魅力があるのか?という疑問に差し当たりますが、なんとぉおぅ!..水鳥拳 中門には世にも珍しい仏像が安置されています!

しかぁし!世にも珍しい仏像であるハズなのに全然、有名じゃありましぇん!仏像を ブツぞう

実はこれには理由があって、まずは文化財指定を受けていない仏像であるのと、やはり現在の中門は通り過ぎてしまうだけの存在であり、門の中まで見ないいうことも理由に挙げられます。

東大寺・中門に関しての詳細は以下のページでご紹介しています。中門を 注文

 奈良 東大寺・中門【重要文化財】

金銅八角燈籠

大仏殿の出入り口手前の階段下には「金銅八角燈籠」という国宝指定を受けている八角形を形をした燈籠があります。この燈籠は752年(天平勝宝4年)に執り行われた大仏の開眼法要と同時期に造立された燈籠になります。

この燈籠が国宝指定を受ける理由とは、素材が金属だったので幾多の火災においての火の影響をそれほど受けることなく、天平期の創建当初の姿をそっくり今に伝えているからです。

燈籠の火袋(ひぶくろ)の部分の面には「音声菩薩(おんじょうぼさつ)」の透かし彫りが見られます。

ただ、大仏殿に訪れたら、いち早く大仏さんを拝みたいがために、この燈籠を通りすぎてしまう方がほとんどです。

しかし、この灯籠は国宝指定を受けているほどの燈籠でもありますので、大仏殿へ訪れた際は、ぜひ!この金銅八角燈籠も忘れずに目が腫れ上がるほどギロっと目ん玉が飛び出して拾うほど凝視してみてください!

金銅八角燈籠に関しては以下のページにてご紹介しています。

 奈良 東大寺「大仏殿・金銅八角燈籠」【国宝】

大仏殿前の「びんずる尊者像」

  • 造立年:1840年(天保11年)8月
  • 像高:約3メートル(台座ふくむ)※国内最大の大きさ
  • 作者:山本印慶子光恒、河内屋利兵衛
  • 大工:辻弥兵衛
  • 発願者:神南邊大道心隆光、泉州堺新在家町・茶屋七兵衛

大仏殿を順路に従って見学し、外に出ると左側(大仏殿の出入り口の向かって右側)に、赤い頭巾を被った像が安置されています。

これは、賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)の像です。造立当初は現在とは逆の位置に置かれていたようです。

怖い顔をしていますが、自分が患っている場所を撫でると病気やケガが治るという「なで仏」として信仰され、「おびんずるさん」「おびんずるさま」などと呼ばれて、日本各地で親しまれています。

これは賓頭盧さんが修行に入る前は医者だったことから、後の時代に「撫でた箇所が完治する」という賓頭盧信仰(撫で仏信仰)が生まれたためです。

東大寺では大仏殿の他、指図堂の前にもいらっしゃいます。

ところで・・「びんずる尊者」って??

びんずる尊者とは、お釈迦様の弟子の1人であり、仏閣ファンであれば良く耳にする「五百羅漢(ごひゃくらかん)」の1人でもあります。

五百羅漢とは、インド仏教の境地に立ち、未だまだ見ぬ境地を極めるために、日々、苦しく険しい修行をする尊い500人の僧侶たちのことです。

びんずる尊者は、仏像を初めて造立したとされる古代インドのヴァンサ国のウダヤナ王(優填王/うでんおう)の大臣の息子であり、一説には優填王にお釈迦様の信仰を説いた人物とも云われます。

しかし後に出家して厳しく苦しい修行を行うことになり、やがて人知を超越した存在にまで上り詰めます。

厳しい修行の成果なのか、説法に長け、他人に反論の余地を与えず、まるでライオンのようだということで、「獅子吼(ししく)第一」とも呼ばれました。ガオ〜っ …。

しかし、羅漢の中でも一際センスがあった「びんずる尊者」は、修行の末に特別な力・・つまり「神通力」を身に付けるのですが、自らの力を過信してしまい、己の欲求を満たすために神通力を使ってしまいます。

それを見ていたお釈迦さまは、大変ご立腹されたと言う伝記があります。

そこでびんずる尊者は、功徳を積み、自らの行いを改めるために、人々の願いを叶えるべく鎮座されているのだそうです。

賓頭盧さんが建物(お堂)の外で見かけることが多い理由は、お釈迦様への懺悔のため、もしくは未だ修行中の身であるからとも云われています。

びんずる尊者は酒飲み!?

びんずる尊者の像は、一般的に白髪、長眉(ちょうび)、そして赤っぽい色の体で表現されます。

体が赤いのは、なんと!五百羅漢の1人ともあろう者が酒を飲みすぎてお釈迦様の怒りに触れ、一時は破門されたといエピソードが伝わっているからだとも言われています。

ただしこれは俗説で、本当のところは赤い体は修行が極まり、体中に生命力が満ち、生気がみなぎっている状態を表しているともされています。

その他の説としては、外陣に置かれることが通例なので雨(酸性雨)で溶けないように朱漆が体表に塗装されているからだという説もあります。

観相窓の開扉

観相窓」とは「かんそうまど」と読み、これは大仏殿の出入り口の真上にある窓のことです。

⬆️観相窓。普段は閉じられている。その上の繊細な作りの蟇股にも注目!

この窓の扉を開くと、大仏さんの顔を真正面で眺めることができるというものです。

観相窓を除いた瞬間、いきなり大仏さんの顔がアップで飛び出てくるので、思わず「”ぅおわっ!”」・・などといったドス黒く小汚い奇声を腹の底からあげてしまうことになります。

 

ぅおわっ!!

・・。

普段は、この窓は閉じられているのですが、1年の中で定められた日だけ開扉されることがあります。

この扉は創建当初から設置されたものではなく、江戸時代に執り行われた公慶上人による再建の折に設置された窓になります。

これは大仏殿に入って大仏さんを見るとどうしても見上げてしまうため、真正面から大仏さんのお顔を拝観できるようにと、公慶上人が参拝者への配慮として据えられた窓になります。

観相窓の開扉日

  • お正月(1月1日/元日)
  • お盆(特別夜間拝観日/8月13日~14日・万灯供養会/8月15日)

毎年、8月13日と14日には特別夜間拝観が行われ、拝観料無料で大仏殿に入ることができます。

そして「盂蘭盆(うらぼん)」の最終日となる「8月15日」の夜には、東大寺・大仏殿において「万灯供養会(まんとうくようえ)」の法要が営まれます。

大仏殿の観相窓が開けられるのは、通常、この3日間の19時~21時(15日は22時まで)と1月1日の0時~8時のみとなっています。




唐破風や蟇股・火灯窓にも注目!

観相窓のすぐ上には、曲線が特徴的な「唐破風(からはふ)」が据えられ、その軒下には繊細な彫刻が施された「蟇股(かえるまた)」、さらにその下には詰組を挟み込む形で「火灯窓(かとうまど)」が据えられています。

⬆️火灯窓
⬆️唐破風の軒下の蟇股
⬆️大仏殿の蟇股
⬆️重源上人の鎌倉期再建を彷彿させる板蟇股

これら唐破風や火灯窓、蟇股は初代および鎌倉時代に再建された大仏殿には無く、江戸時代の再建で初めて付けられたものです。特に火灯窓はおおむね室町時代以降に積極的に取り入れられ始めたものであり、この大仏殿が江戸期に再建されたことを裏付けする証拠でもあります。

鎌倉時代に再建された大仏殿の模型。唐破風はないが、観相窓のようなものはある。

なお、東大寺大仏殿は外から見ると2階建てのように見えるのですが、下層の屋根は「裳階(もこし)」または「雨打(ゆた)」と呼ばれるもので、実際は単層の建造物となっています。裳階や雨打は法隆寺境内の堂舎にも見られるもので「暴風除けの対策」とも言われますが、どちらかといえば豪壮感や威容感を表現するための飾りとしての意味合いの方が強いです。

現在の大仏殿の様々な違いや建築様式・作った人・作った理由に関しては以下のページをご覧ください。

 奈良・東大寺の大仏と大仏殿を作った人・作り方(建築様式)・作った理由って??

大仏様と六手先の出組

大仏殿には南大門と同じような「六手先(むてさき)」呼ばれる出組が見えます。六手先と呼ばれる理由は、外側に飛び出た「肘木(ひじき)」いわゆる「出組(でぐみ)」と呼ばれる「腕の肘(ひじ)に似た形状のパーツ」を6段階に積み上げているからです。

⬆️大仏殿の六手先

⬆️南大門の六手先の出組

「出組」とは屋根を支えるための構造の一種ですが、大仏殿や南大門に見られる肘木には3段目もしくは4段目の肘木に横棒が通されています。

そしてこれらの肘木は根元部分が柱に挿し込む形で据えられていることから、特別に「挿し肘木(さしひじき)」と呼称します。

このような挿し肘木を用いた六手先の出組は、鎌倉時代に重源上人が考案した大仏様(だいぶつよう)と呼ばれるものであり、大仏様の大きな特徴となります。

大仏様の起源は中国・宋よりもたらした大陸の建築様式と伝えられています。

なお、現在の大仏殿は江戸期再建の折、以前の大仏殿の建築様式を可能なまで復原する形で再建されているので、重源上人が用いた純粋な大仏様は見れなくなっています。

もし、重源上人の純粋な大仏様が見たい場合は南大門へ行ってみてください。

金色の鴟尾

大仏殿の拝観受付から中門へ連接する回廊を通って大仏殿正面と正対し、屋根の上を見れば、まばゆいばかりの金色に光る2つのシャチホコのようなものが見えます。

遠くからでは分かりにくいのですが、これはシャチホコではなく、正確には「鴟尾(しび)」と呼ばれるものです。

鴟尾もいわゆるシャチホコと似たようなものですが、大仏殿の鴟尾はシャチホコとは一味ちがいます。

なお、現在は大仏殿内部に鴟尾が展示されていますので間近で鴟尾を見ることができます。

大仏殿内部の鴟尾の形状は同じ奈良県内にある唐招提寺の鴟尾もモチーフの1つとして採用されたようです。

大仏殿の鴟尾についての詳細は以下の別ページをご覧ください。

 奈良・東大寺の大仏殿の「屋根・瓦・鴟尾」と、柱の「由来・意味・歴史・輸送方法」など




大仏殿内の見どころ

盧遮那仏蓮弁線刻図【国宝】

  • 造立年:756年(天平勝宝9年/奈良時代)
  • 高さ(台座から):303㎝
  • 横幅:約2m〜2.5m
  • 材質:銅製

大仏殿に入ると盧遮那仏(大仏さん)が目の前に鎮座されていますが、その大仏さんの前に「三角形の大きな銅板」が置かれています。

この銅板こそが国宝指定の「盧遮那仏蓮弁線刻図」であり、756年(天平勝宝8年/奈良時代)に銅板が完成し、757年に鏨(タガネ)で線刻されたものです。

このどデカイ銅板が28枚ありますが、このうち14枚ほどが奈良時代に制作されたものとして現存しています。

盧遮那仏蓮弁線刻図については以下のページで詳しく解説しています。

 奈良 東大寺 大仏さん台座「大仏蓮弁・蓮華蔵世界図(東大寺大仏蓮弁線図全体図)」【国宝】

盧遮那仏(大仏さん)【国宝】

「実は私、どん兵衛特盛が大好物..オホ」

ご存知!我らがヒーロー大仏さんです。名前を盧舎那仏(るしゃなぶつ)もしくは毘盧舎那(びるしゃな)と呼称し、密教の本尊「大日如来(だいにちにょらい)」にも例えられます。

大日如来は太陽神でもあることから神仏習合の時代は神宮の内宮に御座す「天照大御神」と同一の存在とされていました。

大仏さんが大きな身体をしている理由は、すべての生きとし生けるものを救済するためです。

創建当初は立像として造立される予定でした。しかし立像にしてしまうと50mもの巨大な仏像になってしまうことが判明し、当時の技術では50mもの立像を造立するのは不可能とのことから坐像姿で造立されることになります。

東大寺大仏さんは、743年(天平15年)10月15日に近江国「紫香楽宮(しらがきのみや)」にて聖武天皇が「大仏造立の詔」を発布し、大仏を国家事業として造立することを宣言しています。

それから約4年後となる747年(天平19年/奈良時代)9月29日に東大寺で造立が開始され、約2年後の749年(天平勝宝元年)12月24日に完成を迎えています。

752年(天平勝宝4年)に大仏造立と大仏殿造営成功を祝って「大仏開眼供養」が盛大に営まれています。

盧遮那仏(大仏さん)脇侍「虚空蔵菩薩坐像」【重要文化財】

大仏殿のご本尊「盧遮那仏(大仏さん)」の両脇には、脇侍(きょうじ/=本尊の脇で本尊を侍のように守る仏)が安置されています。

大仏さんを向かい見て左側に安置されているのは、「虚空蔵菩薩」です。読み方は「こくうぞうぼさつ」です。

  • 造立年:1752年(宝暦2年/江戸時代)
  • 造像方法:寄木造
  • 像高:722.5cm
  • 発願者(寄進者):大和国国分寺「法華寺」「坂田寺」の尼僧(※寺伝)

この仏様は無限の智慧を持った智慧の象徴となる仏様です。この仏様は密教の側面が強い仏様で、祈りを捧げることで智慧の一部を授かることができる修法があります。

真言密教の創始者である大師・空海は、この修法を編み出し、虚空蔵菩薩から智慧の一部を授けていただくことに成功し、この修法を「虚空蔵救聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」と呼称します。

なお、本像の造立は、京都の仏師「山本順慶」の一門と、大阪の仏師「椿井民部賢慶(法橋)」の一門により、約30余年のときを経て1752年(宝暦2年/江戸時代)2月4日に完成しています。

盧遮那仏(大仏さん)脇侍「如意輪観音坐像」【重要文化財】

虚空蔵菩薩に引き続き、大仏さんを向かいて見て右脇に安置されているのが「如意輪観音」で、「にょいりんかんのん」と読みます。

  • 造立年:1738年(元文3年/江戸時代)
  • 造像方法:寄木造
  • 像高:710cm
  • 発願者(寄進者):大和国国分寺「法華寺」「坂田寺」の尼僧(※寺伝)

この仏様は少し風変わりな仏様で、一般の庶民が祈りを捧げると財宝を与え、僧侶が祈りを捧げると福徳を授けてくださるそうです。

奈良時代にもっとも信仰が寄せられた仏様で、現世ご利益として厄災消除、健康長寿のご利益を授けていただけます。

蓮に座して造像されている時は、大抵、両足の裏側を合わして座し、右手を頬に当てています。

これは救済の方法を考えている姿を示していると云われています。

本像の造立も上記、虚空蔵菩薩坐像と同じく、京都の仏師「山本順慶」の一門と、大阪の仏師「椿井賢慶」の一門により、約30余年のときを経て1752年(宝暦2年/江戸時代)に完成しています。

大仏さん(盧舎那仏)の脇侍に「如意輪観音像」と「虚空蔵菩薩像」が置かれる例は珍しい!

通例であれば大仏さん(盧舎那仏)の脇侍には「文殊菩薩」と「普賢菩薩」が配されるのですが、この東大寺大仏殿の大仏さんの脇侍に限っては、「如意輪観音像」と「虚空蔵菩薩像」が脇侍として配されています。

この謎は現在に至っても解明されることなく、東大寺の七不思議にも数えられるようです。

盧遮那仏(大仏さん)脇侍「広目天立像」

大仏さんにはまだ広目天立像(東大寺の表記では”廣目天”)という脇侍がおり、現在は大仏さんの左奥に安置されています。通常は四天王として4仏で安置されている像です。

広目天は千里眼を駆使して世の中のあらゆることを見定め、悪には降魔の鉄槌を、祈りを捧げて救いを請う者には救いの手を差し伸べます。

特徴としては、右手に「筆」、左手に「巻物」を持っています。

なお、本像は1799年(寛政11年/江戸時代)に御衣木加持(みそぎかじ)が執り行われ、その後、下記、多聞天像とともに完成を迎えています。

盧遮那仏(大仏さん)脇侍「多聞天立像」

多聞天も広目天と同じく四天王の1尊です。

多聞天は単独で祀られることも多く、単独で祀られる時は名前が変わり「毘沙門天(びしゃもんてん)」と呼称します。毘沙門天は「七福神」で有名です。

特徴としては、右手に宝塔を持ち、左手に金綱棒というダイヤモンド並みに硬い棒をもっています。

四天王の中ではもっとも力が強く、崇拝されることの多い人気の仏様です。有名な戦国武将、上杉謙信が崇敬を寄せていたことでも有名です。ウフ

上記、広目天に等しく、本像も1799年(寛政11年/江戸時代)に御衣木加持(みそぎかじ)が執り行われ、その後、上記、広目天像とともに完成を迎えています。

増長天と持国天の首が・・ギャぁーー!!

ところで上記の四天王像のうち、広目天と多聞天の二天を見て、「残りの二天は?」などと思った方もいると思いますが、残りの二天はというと本来、上記、増長天、持国天と共に四天王像として安置される予定だったようですが、増長天と持国天は未完成のまま、頭部のみ、大仏殿内に展示されています。

「酒のみすぎて電車に身体忘れてきてもた..。早よ問い合わしてぇやぁ」

持国天の頭部

大仏殿の再建の折、最後に造立が開始された四天王像は、1726年(亨保11年/江戸時代)9月16日に御衣木加持(みそぎかじ)が執り行われ、その後、多聞天像とともに完成を迎えています。

御衣木加持とは?

御衣木加持とは、仏像を造立する前に選定した材木に対して、お祓いをする儀式のことです。お祓いをすることで穢れを祓い、霊力をもたせます。

増長天の頭部

上述、持国天と同じく、1726年(亨保11年/江戸時代)9月16日に御衣木加持(みそぎかじ)が執り行われていますが、現在では持国天とともに、もともと彩色のない素木の頭部だけが完存しています。

以上、2体の脇侍像と四天王像をご紹介しましたが、鎌倉時代に重源上人が再建した大仏殿には、他に約2.4メートルもの「石造の脇侍像が2体と四天王像」が安置されていたと云われています。

現在の南大門の模型

大仏殿内部には、平成4年〜6年の間に制作された南大門の模型が置かれています。この模型は現在の南大門を、およそ20分の1の大きさで再現した模型になります。

実は創建当初の南大門がどれほどの規模の門であったのかが明らかにされておらず、現在見ることのできる南大門は鎌倉時代に重源上人により再建された鎌倉時代の姿になります。

創建当初の大仏殿の模型

大仏殿内部には創建当初の大仏殿と鎌倉時代の大仏殿の模型が置かれています。

創建当初の大仏殿は現在よりももっと広範囲に広がっていました。たとえば回廊は背面まで延びており、その向こうには講堂や三面僧坊が存在し、現在の正倉院の手前まで伽藍が広がっていました。さらに大仏殿正面の両脇には七重塔までもが立つほどの古今東西類を見ないほどの大伽藍が形成されていたのです。

しかし度重なる火災によって伽藍は失われ、現在ではその一部は再建されずに史跡として面影を残すのみとなっています。大仏殿の中では、その創建当初の大仏殿伽藍の寺観を50分の1にした模型および、鎌倉時代と江戸時代再建の大仏殿の模型が展示されています。

大仏殿の大きさ比較図

鎌倉時代に再建された大仏殿は奈良時代の創建当初の大仏殿を再現して造られましたのでサイズはほぼ同じです。

しかし江戸時代に再建された大仏殿は(現在の大仏殿)鎌倉時代再建時の大仏殿と大きさが異なります。これについては比較する看板が設置されています。

どれだけサイズが異なるのかは、実際にあなた自身が大仏殿に訪れてみて看板をご覧になってみてください。

大仏殿の歴史や過去の大仏殿の大きさや比較については以下のページを参照してください。

 奈良・東大寺 大仏殿の「歴史(年表)・見どころ・仏像(画像付き)」でご説明!

大仏殿の柱と柱くぐり

大仏殿の柱はそんじょそこらでは見られない特徴的な造りをした柱が用いられています。なんといっても「集成材」と呼ばれる方法を用いた柱になります。それともう1つ大仏さん以外にももう1つメジャーな柱があります。それが「柱くぐり」です。

大仏殿内の一部の柱には大人の女性ぐらいであれば悠々とクグることができるほどの大きな穴ボコが空いた柱があります。この柱の穴ボコをくぐることによって祈願成就や、功徳が積めるなどと囁かれています。

大仏殿の柱くぐりについての詳細は以下の別ページにてご紹介しています。

 東大寺・大仏殿「柱の穴くぐり」の場所やご利益と「大仏の鼻の穴」との意外な関係性とは?




明治時代の大仏殿の柱

上記、柱くぐりができる穴ボコが空いた柱以外の大仏殿を大屋根を支える柱が展示されています。現在、展示されている柱は周囲約3.65mもある図太い杉(すぎ)の柱であり、明治の大修理の際に取り替えられた柱です。

御朱印・お守りの授与所

大仏殿内部は正面に出入口があるのですが、参拝順路が決められており、時計回りに拝観できるようになっています。時計回りにグルっと一周してきて再び出入口までくれば、ちょうど出入口付近にお守り・御朱印の授与所と売店があります。

売店では「東大寺オリジナルの御朱印帳」も販売されており、授与所では「大仏殿の御朱印」と「東大寺のお守り」が授与できます。

御朱印受付は2つで受付される人は2人しかないので、混雑時は少々待ち時間が発生することがありますのでご留意ください。

東大寺のお守りは年度によって種類が異なる場合がありますので、ご注意ください。また、境内の不動堂二月堂では大仏殿では取扱いのない、オリジナルのお守りが授与されています。気になる方はぜひ!これらのお堂にも立ち寄ってみてください。

売店

上記、御朱印およびお守り授与所の隣には、結構大きな売店があります。

キーホルダーや絵葉書、文房具やパンレットを中心に、東大寺に関連した商品だけではなく、地元「奈良みやげ」も販売しています。

帰りは行きに通った回廊とは反対側の回廊を通行して帰ることになりますが、この帰り方向の回廊にも東大寺はじめ奈良のグッズを取扱う売店や、東大寺の記念メダルの自動販売機なども置かれています。

大仏殿の参拝帰りにはぜひ、立ち寄ってみてください。

東大寺境内の休憩所や喫茶店については以下のページにてご紹介しています。

 東大寺境内の「休憩所・カフェ・食事処(ランチ)など」

【補足】その他の東大寺の見どころ

東大寺の見どころは大仏だけではなく、南大門法華堂(三月堂・金剛力士像)二月堂・上院地区などがあります。

二月堂お水とりが行われるお堂。

南大門:有名な仁王さんが立つ東大寺を守護する豪壮感あふれる門です。

法華堂(三月堂):かつて東大寺の前身であった上述、「金鍾山寺」の近藤くんだと目される・・おっと、金堂!!と目される東大寺境内で最古の歴史を持つとされるお堂です。「双び堂」と呼称される「奈良時代のお堂」と「鎌倉時代のお堂」が合体して「1つのお堂」になっています。御本尊「不空羂索観音菩薩立像【国宝】」は東大寺しいては日本を代表する仏像です。

上院地区・・鐘楼行基堂俊乗堂念仏堂四月堂

東大寺に参拝へ来られた際は二月堂や法華堂にもぜひ!足を運んでみてください。きっと素敵な発見が、あなたを待っていますよ。ホンマかぃ

おわりに・・『大仏殿と大仏さんの高さをウルトラマンと比較』

余談ですが・・

大仏さんが立ち上がったら身長約30メートルもあるそうです。ウルトラマンよりも10m低いとか。オホ

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