奈良 東大寺「俊乗堂」
創建年
- 不明
- 推定:1704年(宝永元年/江戸時代中期)
建築様式(造り)
- 入母屋造り
屋根の造り
- 錣葺(しころぶき)
発願者
- 公慶上人
東大寺「俊乗堂」の読み方
東大寺の境内には、難しい漢字の表記のお堂や仏像が安置されていますが、「俊乗堂」は「しゅんじょうどう」と読みます。
「俊乗堂」の名前の由来
「俊乗堂」の “俊乗”とは、東大寺の中興開山とも呼ばれる「重源上人(ちょうげんしょうにん)」のことです。
重源上人は、1180年(平安時代)の平重衡の焼き討ちで多くの建物を焼失した東大寺を再興するため、その翌年、61歳の時に「大勧進(だいかんじん)」という職に就きます。
大勧進とは、寺院の建立や再建における責任者のことで、重源は東大寺再興を実現するため資金集めに奔走し、源頼朝ら時の権力者の協力も得て、1185年に「大仏」1195年に「大仏殿」を完成に導きます。
重源上人は86歳で亡くなりますが、その後まもなく、弟子たちによって作られたといわれているのが、本尊の「俊乗房重源上人坐像」です。
「俊乗堂」の歴史
俊乗堂の創建は不明とされていますが、かつて東大寺七別所の1つ東大寺浄土堂があった場所に創建されており、推定で重源上人の死後500年が過ぎた1704年(宝永1年)「公慶上人(こうけいしょうにん)」によって建立されたと伝えられています。
1704年といえば公慶上人による大仏殿再建の最中であり、東大寺境内は大仏殿再建と並行して伽藍の堂舎の新造が行われています。
例えば徳川家康公を祀る東照宮が東南院の旧地(現在の東大寺本坊/大仏殿の東南)に造営されたり、念仏堂および地蔵菩薩坐像や大湯屋の修理が執り行われています。
なお、一説ではこの俊乗堂が建つ地が重源上人が没した場所だとも云われています。
俊乗堂には「浄土堂」という前身となるお堂があった?!
上述したように、現在の俊乗堂は創建当初からの俊乗堂ではなく、かつては浄土堂という堂舎が建っていた跡地に建てられています。
「浄土堂」とは、重源上人が源氏の武将「田口成良(たぐちのしげよし/阿波民部重能)」に対する鎮魂の意をもって創建した堂舎と伝えられ、1567年(永禄10年)に焼亡した現存しない堂舎です。
田口成良とは、1180年の南都焼討の折、平家軍の先陣と務めた勇将でありながら、平家が滅亡した壇ノ浦にて主家を裏切って源氏方へ味方し、その結果、平家の内情を伝えるなどで功を立て、源氏を勝利に導いた人物です。
しかし、源氏が勝利した後、主家を裏切って滅亡に追い込んだ「不忠の者」として斬首されてしまうのですが、それを知った重源上人が言葉にできないほどの憐れみの気持ちから、せめてあの世では極楽浄土へ行けるようにとの思いでお堂を建てて祀り、「浄土堂」と名付けたとされます。
えぇっ?!かつては行基堂が俊乗堂だった??
大仏殿の江戸期再建の最大の功労者として知られる「公慶上人(こうけいしょうにん)」は、1728年(享保13年)に造立した「行基菩薩坐像」を安置するためのお堂として、現在、行基堂と呼ばれている堂舎(かつての俊乗堂)に安置したことから、「かつての俊乗堂が→行基堂へ」と名前が改められることになります。
ただ、ここで問題となってくるのが、俊乗堂でもともと祀られていた、重源上人坐像(俊乗上人坐像)【国宝】をドコへ移動するのか?ということです。
そこで公慶上人が発願して、かつて浄土堂が建っていた場所に現在のお堂を建てて、上記、重源上人像を安置したのが今の俊乗堂です。像を安置した際、重源上人が愛用した遺品(脇息、杖)などが同時に収められたようです。
時代の変遷(まとめ)
・現在の行基堂→実はかつては俊乗堂だった。行基菩薩坐像を安置したことから名前が行基堂へ変更された。
・浄土堂(すでに廃堂されて更地だったが、現在の俊乗堂の場所に建っていた)→その場所に公慶上人が現在の俊乗堂を造営。その後、重源上人像を安置。
「行基菩薩坐像」に関しては、もともと公慶上人が発願して造立したものなのですが、公慶上人が死去したため以降は弟子の公俊(こうしゅん)が意志を受け継いで、東大寺大仏殿の脇侍菩薩像を造立した仏師「賢慶(けんけい)」に命じて造立させています。
そして1728年(享保13年)4月に無事に完成を迎えています。
俊乗堂を建立した「公慶上人」
上述、浄土堂は鎌倉時代初頭に重源上人自らが建立し、臨終を迎えたとされるお堂とも伝えられています。堂内には聖武天皇の護持とされた「冠の舎利(こうぶりのしゃり)」や後に重源上人の遺品が収められたとされます。
しかし、1567年(永録10年)に松永弾正(久秀)による大仏殿の焼き討ちの際に焼失してしまいます。
その後、東大寺創建に大きく貢献した重源上人の菩提を弔い後世まで尊崇する目的で、かつて浄土堂が存在したこの場所に1688年から1704年(元禄年間)に公慶上人が俊乗堂を建立します。
すでにお話したとおり、1180年(鎌倉時代)の平重衡による南都焼討ののち、重源上人が大勧進となって東大寺伽藍を再興しましたが、再び、戦国時代の戦火によって、大仏殿など多くの建物を亡失しています。
それらを再び蘇らせようとしたのが、江戸時代の公慶上人です。
公慶上人は、重源上人と同じように大勧進を務め、大仏の修復や大仏殿の再建に尽力し、後世にて重源に次ぐ「第二の中興開山」とも呼ばれるようになっています。
余談ですが、その公慶上人を祀るための堂舎として、現在も大仏殿の西側に秘仏「公慶上人坐像」を祀る「公慶堂」が佇んでいます。
関連記事:奈良 東大寺・勧進所「公慶堂・木造公慶上人坐像」【重要文化財】
東大寺・俊乗堂の建築様式と特徴
東大寺の境内には、法華堂(三月堂)などを筆頭に特徴的な屋根の形をした建造物が多く見受けられます。
そして、この俊乗堂もその内の1つであり、屋根をよく見ると興味をそそられる造りの屋根を見ることができ、屋根をよく見ると「二重」になっているように見えるのが伺えるかと思います。
このように2つの斜面を組み合わせた屋根を「しころ屋根」や「しころ葺き」と言います。
俊乗堂の見どころ
「釘打の弥陀」
俊乗堂に安置されている「阿弥陀如来立像」は、重源上人の意向で作られたとされる像で「釘打の弥陀(くぎうちのみだ)」という通称があります。
造立年
- 不明
- 推定:1202年から1203年※鎌倉時代
像高
- 98.78cm
素材・造り
- 金泥塗り
発願者
- 重源上人
作者
- 快慶
安置場所
- 東大寺・俊乗堂
「釘打ちの弥陀」の名前の由来や、歴史については以下の別ページにてご紹介しています。
「俊乗房重源上人坐像」【国宝】
造立年
- 1200年代初頭
造り
- 寄木造
材質
- ヒノキ材
東大寺南大門仁王像の作者の1人としても知られる快慶の作ともいわれています。ハッキリとは分かっていません。
「俊乗房重源上人坐像」に関しての記述は以下の当サイトの別ページにてご紹介しております。
秘仏・「阿弥陀如来立像」【重要文化財】
造立年
- 1202年(建仁2年)※鎌倉時代前期
作者
- 仏師・快慶
重要文化財指定年月日
- 1906年(明治39年)9月6日
秘仏・「愛染明王坐像」【重要文化財】
造立年
- 平安時代末期
重要文化財指定年月日
- 1906年(明治39年)9月6日
これらの仏像は普段は拝観することは叶わず、7月5日の「俊乗忌」の法要後に特別一般公開があり、ここで拝観することができます。つまり1年で1日1度しか拝観することができません。
仏像を拝観したい場合は7月5日を狙って訪れてみてください。(拝観料金は2019年より600円になります。)
俊乗堂の御朱印
俊乗堂でも御朱印をいただくことができます。
↓中央に「重源上人」と書かれた御朱印
↓中央に「愛染明王」と書かれた御朱印
↓中央に「阿弥陀如来」と書かれた御朱印
12月16日「良弁忌(開山忌)」の御朱印
※日付が違うのみで他はまったく同じです。ただ、見方を変えればその日付の御朱印はもう二度と入手できないので、ある意味、これも「限定」と言えます。ウフ
俊乗堂の御朱印の値段:300円
この他に、お願いすることで「阿弥陀如来の真言(御詠歌)の御朱印」もいただけるようです。
東大寺は御朱印の数が多く、その御朱印がいつまで授与されているのかは不明です。都度、お問い合わせください。
俊乗堂の御朱印の詳細および東大寺の御朱印・一覧の詳細は以下のページにてご紹介しております。
東大寺・俊乗堂の特別拝観(特別開扉)の「日程・時間・料金」
東大寺・俊乗堂は、年に2日のみの特別公開され、お堂の中の仏像を拝観することができます。
特に「俊乗房重源上人坐像」は国宝に指定されていることから、この仏像を拝観するために多くの人々が押し寄せます。
こちらのページでご紹介する料金などは変更になっている場合がありますので、最新情報は公式ホームページなどでご確認ください。
7月5日「俊乗忌」
- 特別開扉の時間:8時から法要その後11時~16時頃まで
- 拝観料:500円
12月16日「良弁忌(開山忌)」
- 特別開扉の時間:8時から法要その後10時~16時頃まで
- 拝観料:500円
なお、東大寺には俊乗堂以外にも特別拝観ができるお堂がいくつかあります。詳細は下記ページを参照してください。
東大寺「俊乗堂」の場所と行き方(地図)
「俊乗堂」は、東大寺大仏殿の東側にある「猫段」と呼ばれる石段を上った「鐘楼の丘」に建っています。
このあたりはかつて金鐘寺(こんしゅじ)もしくは金光明寺(きんこうみょうじ)と呼ばれた東大寺の前身とされる寺院の伽藍があった場所です。この伝承を敬う意味合いで別名で「上院地区」と呼ばれているエリアになります。
もしくは大仏殿再建の折、棟木(むなぎ)を引き上げた場所でもあることから、「綱引き山(つなひきやま)」とも呼ばれています。