奈良 漢国神社(本殿)【奈良県指定有形文化財】
創建年
593年(推古天皇元年/飛鳥時代)
再建年
1188年(文治4年/平安時代)
1610年(慶長15年/江戸時代初期)
※現在の社殿(本殿)は社伝によると江戸時代初期に再建されたもの
建築様式(造り)
三間社流造り
屋根の造り
檜皮葺
大きさ
桁行3間
梁行1間
奈良県指定有形文化財指定年月日
1951年(昭和26年)11月1日
御祭神
大物主命(園神)
大己貴命(韓神)
少彦名命(韓神)
例祭
饅頭祭(林神社):4月19日/10:00~
例大祭:10月17日/10:30~
項・一覧
漢国神社の漢字の読み方
漢国神社は、そのまま読むと「かんこくじんじゃ」と読めますが、正式には「かんごうじんじゃ」と読みます。
漢国神社の別名
神事の「饅頭祭(まんじゅうまつり)」や、”まんじゅう”と関わりがの深いことから別名で「まんじゅう神社」とも呼ばれています。日本全国でも饅頭を祀った神社は当神社のみです。
ただし、1874年(明治7年)以前は「春日率川坂岡社(かすがいさがわさかおかしゃ)」と、現在とはまったく異なった名前で呼ばれていたようです。
漢国神社の名前の由来
漢国とは、漢の国を指し、これは当社の御祭神である古代中国の神である韓神(からかみ)を奉斎することにあると云われる。
漢国神社の御祭神
漢国神社で祀られている神は現在3座で、中座に「園神」、左右に「韓神」が鎮座しています。
以下ではこれらの神々の素性について述べていますが、この証拠となっているものは1162年(平安時代末期)に編纂された奈良桜井市「大神神社(おおみわじんじゃ)」に伝わる「大倭神社注進状」の記述と、漢国神社の社伝によるものです。
ただ問題なのは「大倭神社注進状」という古書物は後世で脚色された可能性が示唆されることから、園神や韓神の素性はいまだ謎とされています。
「園神」とは?
園神とは「そのかみ」と読み、この神はその昔、平安京の宮内省に祀られていた神だと伝えられています。
現在までの定説では、「大物主神(おおものぬしのかみ)」のことを指すと伝わっていますが、平安京の宮内省の”園池”を守護するために祀られた神であることから「園神」と称されたとも考えられています。
大物主神といえば、同じ奈良県内の大神神社に鎮座される「大物主大神」と御同体の神であり、はたまた島根県出雲大社に鎮座される「大国主大神」とも同じ神であると云われています。
大国主大神と御同体とされる理由は、大神神社の由緒に次のような記述が残されているからです。
『大国主大神が自らの和魂(にぎたま/=穏やかな心)を”大物主神”として祀った』
「韓神」とは?
韓神は「からかみ」と読み、この神もその昔、平安京の大内裏の宮内省に祀られていたと云われておりますが、一説では、渡来系氏族の秦氏が祖国の神を宮中に祀ったものが「韓神」であるとも考えられています。
秦氏の代表格に「秦河勝(はたのかわかつ)」がいますが、河勝は聖徳太子に仕えて法隆寺創建に携わったとされる人物でもあり、子孫が京都伏見稲荷大社を創建した「秦伊呂巨(はたのいろぐ)」としても有名です。
この秦河勝を代表とした渡来系の人々が日本の朝廷に仕えて官位を賜り、大陸の様々な技術を伝えています。
しかし、漢国神社の社伝によれば、韓神とは「大己貴(おおなむち)」・「少彦名(すくなびこな)」の2神のことを指すとされており、当神社に祀られた園神と韓神を宮中へ勧請したと伝えられています。
韓神の名前の由来は、名前から察することができるとおり、「韓」は朝鮮半島(三韓)を表す言葉と推測され、これはつまり、日本へ渡った渡来人が朝鮮半島の神を日本で祀ったものだと考えられています。
ただ一説では、平安京遷都以前からもともと秦氏が鎮守神として、園神・韓神を平安京の場所に祀っていたとされ、それがそのまま宮中に受け継がれたとも考えられています。
なお、平安時代の宮中では年2回、これら園神と韓神を盛大に祀るために、陰暦の2月と11月の丑の日に「園韓神祭(そのからかみのまつり)」という祭典が執り行われていたようです。
漢国神社の拝観料金・開門閉門時間(営業時間)
拝観料金:無料
開門閉門時間(営業時間):午前6:00~午後6:00
漢国神社の境内見どころ
漢国神社は本殿を取り囲むようにして、周囲に子社が鎮座しています。
山門(門)
出入口となる鳥居をくぐってしばらく進むと、”神社”と名前が付くにも関わらず、お寺のような門が見えます。
まさに明治以前の神仏習合時代の名残とも言える門ですが、それもそのハズ・・、なんとぉぅ!すぐそこにある奈良 興福寺が再建した門になるからです。
この門に関しての記録は焼けてしまって残されていないことから、造営年は不明とのことですが、1181年の平重衡による南都焼討によって境内が全焼した後、1188年(文治4年/平安時代)に興福寺の寄進により境内が再建が成っています。その時に再建された門だと伝わっています。
なお、現在みることのできる門は、安土桃山様式を伝えてはいるものの江戸時代に再建された門になります。
林神社
- 創建年:1949年(昭和24年)
- 御祭神:林浄因命
- 例祭:まんじゅう祭(毎年4月19日)
林神社は「はやしじんじゃ」と読むのではなく「りんじんじゃ」と読み、ぬぅあんとぉぅ!日本で唯一の”まんじゅう”を祀った神社なのです。
名前の由来は、1349年(貞和5年/室町時代)に中国淅江省(せっこうしょう)から渡来した「林浄因(りんじょういん)」の”林(りん)”をとって「林神社」としています。
林浄因とは、北宋時代の詩人・林逋(りん ぽ)の7代目の末裔にあたる人物とされ、日本で生を得た後、この漢国神社の前あたりの土地(奈良市林小路町)に居処して、日本で初めて”まんじゅう”を作ったと云われます。
なお、林神社の社殿の左右に置かれているものは石製のウンコではなく”饅頭”です。くれぐれもウンコだと勘違せぬように。オホ
饅頭塚
画像引用先:wikipedia.org
他に、この林浄因に由来したものとして、まんじゅうの形をした石が祀られています。それが漢国神社境内に置かれている「饅頭塚(まんじゅうづか)」です。
饅頭塚の由来
林浄因は京都に出店した際、足利将軍家を通して朝廷でも一目置かれるほどの存在になりますが、その噂は時の天皇「後村上天皇」の耳にまで入ります。
その後、浄因は後村上天皇へも饅頭を献上することになりますが、天皇も浄因が作った饅頭に、ヒヤっホぉぃ〜っ!ぉぅぉぅ!・・などと歓喜のおたけびを上げてしまい、こホンっ!褒美に宮中に仕える若きピチピチとした娘っ子を浄因に与えたそうです。
やがて浄因とその若きピチピチとした娘っ子は結婚することになりますが、その結婚式でも浄因は特製の紅白饅頭を振る舞って招待客を驚かせたそうです。
そのうちの1組を当神社の境内に埋めて塚を立てて祈願したのが、現在見ることのできる「饅頭塚」というわけです。
葵神社
「葵」という文字で察した方も多いと思いますが、そのとおり葵は徳川家の家紋で有名です。葵神社の名前の由来は、徳川家康公と漢国神社の縁にちなむものです。
無論のこと、この葵神社には徳川家康公が祀られています。
ご利益も天下人になった家康公にちなんで「大願成就」とされています。家康公は大坂冬の陣で豊臣方の武将「真田幸村」に敗れてしまいますが、最終的には天下人となって江戸幕府を開いています。
茶糸威胴丸具足(ちゃいとおどしどうまるぐそく/徳川家康公の鎧)
画像引用先:wikipedia.org
- 奈良県指定有形文化財登録年月日:2004年(平成16年)3月3日
漢国神社には、徳川家康公の鎧が祀られています。
この鎧は上述した、徳川家康公が1614年(慶長19年)の大坂冬の陣において豊臣方の勇将「真田幸村」との戦いで敗れた際、命からがら現在の当神社の境内の桶屋に隠れ潜み、九死に一生を得たという恩義に報いるために家康公が去り際に当神社へ奉納したものです。
以降、この鎧は当神社の「鎧蔵」と呼ばれた土蔵で保管されていましが、奈良県指定有形文化財の指定を受けたことによって、現在は奈良国立博物館で厳重に保管されています。
その代わりとして、本物を忠実に再現して作られた「複製の家康公の鎧」が神楽殿の窓ガラス越しに置かれています。
見学料金は無料、自由に見学できます。
末社・源九郎稲荷神社
- 御祭神:宇迦之御魂神
- ご利益:五穀豊穣、商売繁盛
小さな社ですが、日本三大稲荷に数えられるほどの由緒ある歴史を持つ社(神社)です。同じ奈良県の大和郡山市を本社として、奈良県内に多数、祀られています。
源九郎稲荷神社が奈良県特有の神社だと言われる理由は、大和国の支配者となった大和郡山城主「大納言・豊臣秀長」が郡山城の鎮守神として祀っているからです。以降、秀長を慕った民衆たちによって広まっていきます。
なお、漢国神社の源九郎稲荷神社は、社伝によれば1924年(大正13年)に山上の寺から勧請されて祀られたと伝えられています。
水神社と手水舎
小さな覆屋風の神社ですが、境内手水舎の脇には水神が祀られています。手水舎で水を清めた後、まず、お参りする神社です。
八王子社
- 御祭神:八王子神
八王子神とは、一般的には「素戔嗚尊(スサノオノミコト)」もしくは、素戔嗚尊が権化した姿となる「牛頭天王(ごずてんのう)」の8柱の御子神を祀った神社です。
八王子社は、ここ漢国神社境内だけではなく、日本全国にあります。 奈良県で例えると、奈良市納院町にも八王子社があります。
藤棚
漢国神社の神楽殿の前には藤棚が組まれており、この藤が春になると君の去り際のラストスマイルのように儚げに満開に咲き誇ります。
- 見頃時期:4月中旬
白雉塚
漢国神社の境内には、721年(養老5年)4月、百済王より貢献された白雉(はくち)が埋められた塚があります。
白雉とは「白」と「雉」に分けて意味を紐解けば簡単に理解できますが、「白い雉(キジ)」のことです。
古来、白い生き物は神使(しんし)として崇拝対象になっていた事実からしても、この白い雉は「吉兆の証」だということで大切に飼育されていた背景が想像につきます。
この塚を築いたのは、第44代天皇「元正天皇」です。元正天皇は漢国神社へひときわ篤い崇敬を寄せており、白雉が死んだのち社参し、724年(神亀元年)9月18日にこの塚を築いて白雉を弔ったとされています。
この雉は、723年(養老7年)2月に元正天皇より漢国神社に奉納さられており、以降は、漢国神社の周りの田んぼで飼育されていたものと考えられています。
漢国神社の社務所
漢国神社社務所では御朱印、お守りを拝受したり、御朱印帳を購入することができます。
漢国神社の社務所は境内の出入口となる鳥居をくぐって右手スグになります。(本殿までは行かない。門の手前)
漢国神社の歴史(由来)
593年(飛鳥時代)の創建!
漢国神社の創建は593年(推古天皇元年/飛鳥時代)2月3日に、推古天皇の勅命において大神君白堤(おおみわのきみ しらつつみ)という役人が園神を祀ったことが起りとされています。
593年といえば、768年(神護景雲2年)創建の春日大社(かすがたいしゃ)や、669年(天智天皇8年)創建の興福寺(こうふくじ)よりも古い歴史をもつ神社になり、これは同じ593年に創建された、ならまちに位置する「元興寺(がんごうじ)」と並びます。
御祭神である「園神(大物主神)」との関わり合いから推定すると大神君白堤の”大神君”とは、大神神社(奈良県桜井市)を代々、守護してきた一族である「大神氏(三輪氏・大三輪氏)」のことを指すものだと考えられます。
「大神氏」とは、一説では大物主神の子孫の一族とも云われており、この事実は記紀(日本書紀/古事記)の記述にもみえます。
面白いのは、大神君白堤が仮に、三輪氏族の「大三輪白堤(おおみわのしらつつみ)」という人物と同人物だとすれば、漢国神社から三条通りを挟んでスグ隣に位置する「大神神社・摂社の率川神社(いさがわじんじゃ)」とも、きわめて関連性が深い神社となります。
この理由は、大三輪白堤が推古天皇の勅命によって、初代・神武天皇(じんむてんのう)の皇后「媛蹈韛五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)」を祀るために率川神社を創建したとされているからです。
717年!神様が2柱、増える!
717年(養老元年)11月28日、藤原不比等(ふじわらのふひら)が2柱の韓神(大己貴命・少彦名命)を園神(大物主神)の左右に祀り。合計で3座の鎮座としています。
大神神社の社伝「大三輪三座鎮座次第」の記述によれば「推古元年、大神君白堤が勅命を奉じて春日率川・坂岡の両所を奉遷した」とあります。
ここでの「率川」とは、まさに隣の「率川神社」のことであり、坂岡とは、狹岡神社(さおかじんじゃ/奈良県奈良市法蓮町)の指すと考えられています。
すなわち、「率川神社と狹岡神社の神を推古天皇の勅命によって、大神君白堤が現在の漢国神社の地へ移した」というように解釈されます。
率川神社と狹岡神社と漢国神社の位置関係
1180年(治承4年/平安時代)社殿炎上!
1180年には平家(平重衡)による南都焼討が行われますが、その際、この漢国神社も社殿が炎上したとの記述が残されています。
1188年、社殿再建される!
1188年(文治4年/平安時代)に、付近に位置する興福寺(こうふくじ)の覚昭(かくしょう)大僧正による朝廷への進言により、社殿再建が成ります。
1614年には社領が増える!
1614年には、徳川家康公によって法蓮村の土地を社領として寄進されています。これにより境内の整備や社殿の修復が行われています。
家康公が寄付した理由は、漢国神社が家康公の命の恩人になったからです。
これについては、1614年(慶長19年)11月15日に勃発した「大坂冬の陣」の折、家康公は「木津の戦い」にて豊臣方の勇将「真田幸村」に大敗を期し、命からがら何とか奈良の地に落ちのびます。
その際、漢国神社もしくは同敷地内の「念佛寺」境内の桶屋(おけや/=大きなタルのこと)の中に隠れこんで、九死に一生を得たとの言い伝えが残されています。
(隣接する念佛寺にも家康公にまつわる同様の言い伝えが残されていますが、漢国神社の方には鎧が奉納されています。)
なお、すでに前述していますが、漢国神社に家康公の甲冑(鎧)が置かれている理由は、せめてもの恩返しにと家康公が奉納したものだからです。
漢国神社の御朱印(御朱印帳)の種類や値段、授与場所について
漢国神社の御朱印(御朱印帳)の種類や値段、授与場所については以下のページを参照してください。
漢国神社のお守りの種類や値段、授与場所について
漢国神社のお守りの種類や値段、授与場所については以下のページを参照してください。
漢国神社の場所とアクセス(行き方)
『近鉄奈良駅』からの所要時間(徒歩)・距離
- 距離:約250m
- 所要時間:約3分
近鉄奈良駅構内から「7番出入り口」を目指して、近鉄高天ビルから地上へ上がる。上がると後方に見えるセブンイレブン(コンビニ)の向こうに見える道「やすらぎの道」を直進すること約2分。
『JR奈良駅』からの所要時間(徒歩)・距離
- 距離:約850m
- 所要時間:約11分
奈良駅を東口から出て、「旧奈良駅駅舎」を目指す。旧駅舎前の交差点から横断歩道を渡って「三条通り」へ入り約5分直進。1つめの大きな交差点を左折して、上述「やすらぎ通り」へ入って約3分直進。
漢国神社の出入口
漢国神社の出入口には鳥居と石灯籠が建てられていますが、社殿群は鳥居から30秒ほど奥に建てられています。
漢国神社の駐車場
漢国神社の駐車場は、鳥居をくぐって突き当たりを右へ行った先に駐車スペースがありますので、車を運転したまま鳥居をくぐって境内へ入ることになります。
- 境内収容台数:6台(常時停めれるのは4台)
満車になることは滅多にありませんが、漢国神社の祭事や東大寺の法要、春日大社の大祭、奈良公園のイベント時などは満車になることがあります。その場合は周辺付近のコインパーキングへ駐車して下さいとのこと。
漢国神社の問い合わせ先
住所:奈良市漢国町2番地
電話番号:0742-22-0612
定休日:なし(年中無休)
URL:http://www.kangou-jinja.jp