東大寺・二月堂「舞台」の「夜景」や「奈良時代の眺望」・建築様式(造り)などをご紹介!

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東大寺・二月堂「舞台」の「夜景」や「奈良時代の眺望」・建築様式(造り)などをご紹介!

東大寺・二月堂の「舞台」は、「寺院の舞台」としての有名度では、京都・清水寺の舞台には遠く及ばずとも、この舞台からは君の悲しげで比類なき美しい瞳に映し出された星屑のような夜景のように、それはそれは言葉にできないほどの美しい夜景を見ることができます。長っ

以下では二月堂の舞台から見ることのできる夜景を舞台の建築様式(造り)なども併せてご紹介します!

二月堂・舞台から見える夜景

二月堂の舞台からは奈良市街が一望できます。晴れた日には生駒山なども見えますので、奈良市内屈指の展望台とも言い換えることができます。

この奈良屈指の展望台からは当然の如く夜景も見ることができます。

⬆️奈良市街のネオンが見事!眼下の灯りは二月堂裏参道の外灯

二月堂は夜でも入れるのか??

二月堂の舞台はなんとぉぅ!24時間立ち入りが可能であり、その上、なっなんとぉぅ〜!拝観料が無料で立ち入ることができるじゃアーリマせんか!

二月堂・舞台の夜はどんな感じ??

二月堂・舞台の夜は・・一言で言えば静かです。さらに舞台には吊り灯籠が付けられていますので、それとなく明るい状況にはあります。 

また、二月堂までの道中にも外灯が立ち並び、夜道も全くの真っ暗闇ではありませんので、歩行に支障をきたすことはありません。ただし、部分的に外灯がない箇所もありますので、懐中電灯は必須の持ち物となります。

金曜日や土曜日の夜になれば次の日が休みなのか、羽を伸ばして、熱々の恋まっさかりリンリン…フンっ!・・的なキャ〜ぁプルぅ〜る(訳:カップル)がそれとなく、いやがります。

特にオススメは夏の日の二月堂です。二月堂の周辺は古代原生林が広がり、さらに小川があることからホタルなどの「虫」や「カエル」たちの夜の合唱を夜景と共にシンミ〜リとステレオサウンドで聞くことができます。


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過去(奈良時代)の二月堂・舞台から見えた景色

奈良時代(東大寺創建当初)、この二月堂舞台や若草山から見る景色は都随一であったと言われ、平城京を一望できたと云われます。

789年頃の若草山や二月堂から見える景色をイメージした以下のような絵画が二月堂の北の茶屋に展示されています。

この絵に描かれた二月堂および若草山から眺望できる景色は、まず、眼下に大仏殿とその後方に現在は跡地としてだけ残る「講堂」があり、講堂の後方には囲むようにして三面僧房が見えます。

さらに三面僧房の後方には正倉院(しょうそういん)があり、その向こうには「転害門(てがいもん)」が見えます。

実はかつての平城京は現在の東大寺・転害門のすぐ前まで広がるほどの広大な敷地面積を持ち、転害門の手前には平城京の「一条南大路」が平城宮まで続いていました。

この一条南大路と平行して「二条大路」が現在の奈良交通バスの「押上町バス停」の手前まで延びていました。

その二条大路の手前には、これまた転害門と平行になる形で「西大門」が配されており、現在では「西大門跡地」として看板が立てられているのみですが、創建当初の東大寺では、この西大門が現在の南大門を凌いで東大寺のシンボルとなる門でした。

ちなみに、かつて西大門が確かに存在したことを示す証拠として、西大門に掲げられていた聖武天皇が直々に揮毫(きごう/書く)された扁額(へんがく)が東大寺ミュージアムの出入口付近に展示されています。

西大門の奥には西塔を中心とした「西塔院」とその奥に大仏殿はその前の中門を挟むようにして東塔と東塔院がありました。

そして南大門の脇あたりから二条大路が延びて、その突き当たりには朱雀門に通じる都の正道「朱雀大路」が見えます。その朱雀大路の後ろには平城京を取り囲むようにして生駒山が広がっています。

これらの大通りが都(平城京)と東大寺、果ては春日大社を連絡していました。

現在の二月堂・舞台から見ることのできる夜景および景色

では、上記、奈良時代の景色と比較する形で、かつての平城京に奈良市街を当てハメてみた景色をちょっとご紹介します。

同様にこの写真から見える景色は二月堂・舞台および若草山から見える眺望となります。

まず、眼下に見える景色は大仏殿は同じですが、大仏殿の後方の講堂と三面僧房はすでになく、現在では木々や湿地になっている様子がうかがえます。

大仏殿の手前には中門がありますが、奈良時代の時ように西塔や東塔はすでになく、かろうじて南大門だけが建っている状況です。

南大門の脇あたりにはかつては二条大路がありましたが、現在は大通りはなく、奈良県庁が建っています。その奈良県庁の後方に「近鉄奈良駅」とその左側にわずかに興福寺の五重塔が見え、その奥に「JR奈良駅」が視認できます。

平城宮に関しては、かつて平城宮があったとされる場所に復原されていますので位置的には変わりません。その後方に同様に復原された太極殿も見えます。

こうして見ると東大寺の境内は奈良時代のままの自然や一部の堂舎が現存し、奈良時代の当時からすれば未来都市とも言える現代との見えない障壁を感じます。

東大寺境内は太古の様相を留め、その向こうには未来都市が広がる・・なんとも不思議な光景です。

ただ、現在の平城宮がある周辺付近は野原が多く、「兵どもが夢のあと・・」。まさにかつて都があった名残をほのかに伝えています。

二月堂の舞台の建築様式(造り)

舞台造り・懸け造り

⬆️二月堂の脚元は三手先の出組?が用いられている。整然と並んだ姿が美しい

この二月堂の舞台は清水寺の舞台と同じように「舞台造り」や「懸け造り(かけづくり)」と呼ばれる建築様式で造られています。

しかし清水寺の舞台との大きな違いは、舞台下の腰組にあります。

二月堂の舞台の脚元は、幾重にも積み重ねられた組物(出組)や木で作られた台を積み重ねる形で作られています。この様子は舞台下に張り巡らされた木柵の間から除けば見ることができます。

⬆️二月堂舞台の脚元。幾重にも積み重ねられた木台が見える。

舞台下に近づくときは、芝生で滑りやすくやすくなっていますので、くれぐれも足元に注意してください。

舞台の廊下

二月堂の舞台に上がっても景色ばかりが気になってそれほど他のことは気にかけないと思いますが、二月堂へ訪れた際は、ぜひ!ちょっと足元の床をご覧になってみてください。

二月堂の床は凸凹(デコボコ)していることに気づくハズです。

実はこの床、もとはまっ平らな床だったのが、このような凸凹デコポンになっちまっているんですよ。

なぜ、このような凸凹デコポンになっちまったのかと言うと・・1日に何千何万という人々が舞台の上を歩いたり、はたまた、例年の修二会のときに練行衆がこの舞台の上を走破したりすることから床の木材がすり減ってしまい、このような状態になっちまっているんです。

ただ、二月堂の舞台は、枝が付いた木材(ヒノキ)を削って平らにしているだけの無垢材を使用していますので、硬い枝の節目の部分はすり減るのに時間がかかることから、このように枝が付いていた部分だけが浮き出てしまい、凸凹ボコピンの状態になっているワケでゴザんす。

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