奈良 東大寺「良弁杉」(二月堂)

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奈良 東大寺「良弁杉」(二月堂)

植栽年

1961年(昭和36年)

再植栽年

不明
現在までで2回(現在の良弁杉は3代目)

良弁杉の読み方

東大寺の境内には、難しい漢字の表記のお堂や仏像が安置されていますが、「良弁杉」は「ろうべんすぎ」と読みます。

「良弁杉」の名前の由来

良弁とは、753年の大仏開眼の後、東大寺の初代別当(初代住職)となった、良弁僧正のことです。 この良弁杉は、良弁僧正が幼い時に鷲(わし)にさらわれた際、ひっかけられた木だと伝わっており、いつしか「良弁杉」と呼ばれるようになっています。

なお、幼き日の良弁僧正が鷲にさらわれてからの展開にはいくつかのバリエーションがありますが、概ね以下のような話となっています。

 【その1.】「東大寺要録」からみる良弁杉の由来

東大寺に伝わる古書「東大寺要録」によれば、鷲にさらわれた幼児は山城国多賀の辺(現在の京都府綴喜郡(つづきぐん)井出町多賀)あたりに落とされて近くの住民に育てられたとされています。

 【その2.】「南都二月堂良弁杉由来」からみる良弁杉の由来

一般的に良弁杉の由来は「南都二月堂良弁杉由来」の内容が主となっています。南都二月堂良弁杉由来では、ワシにさらわれた子は二月堂の杉の枝に吊るされたというお話です。

 【その3.】「東大寺縁起絵詞」からみる良弁杉の由来

東大寺・深山の大杉の洞の中に鷲が子を置き育てたとされています。

やがて、子がものごころが付く頃、執金剛神を本尊に据えて華厳経を勤修しはじめ、近くにあった大石の上に座して宮殿(都)に向かい「金輪聖王天長地久(きんりんしようおうてんちょうちきゅう)」と発したとされています。

「金輪聖王」とは天皇のことを指し、「天長地久」とは、「天地が永久不変」と解して「物事がいつまでも変わらずに永遠に続くこと」という意味合いをもちます。

まとめると、「天皇の治世が永遠に変わらずに続く」という解釈になります。

 【その4.】「良弁物語(元亨釈書)」からみる良弁杉の由来

良弁物語の内容では次のような内容になっています。

滋賀県の”とある里”で、”ある女”が「子を授かりたい」と観音様へ祈りを捧げたそうです。すると母はたちまちのうちに身ごもり、やがて子が生まれます。

年月は流れ、子が2歳になったとき、女が少し離れたところに子を置いて畑仕事をしていると急にオオワシが現れて子をさらったそうです。

その後、義淵(ぎえん)という僧侶が(のちの良弁の師)春日社へ詣でたとき、道中の野原にオオワシと泣きじゃくる子供を見つけます。

義淵が子供とオオワシに近づくとオオワシは大きな翼をはばたかせて、たちまち大空へ飛び去ったそうです。

義淵は残された子を引き取り、育てることになります。

さらに月日が流れ、東大寺に良弁と名乗る高僧の評判が広まり、その高僧が幼いときにワシにさらわれて義淵という僧侶に育てられたという話も広まります。その話を聞いた女は、すぐさま東大寺へ向かいます。

女は飲まず食わずで春日社の近くまできたところで疲れ果ててしまい腰を落として寝そべるように休憩をしていたら、良弁がやってきて「旅の者、大丈夫か?」と声をかけます。女が「…はい。オホ」と答えると「そうか大丈夫そうだな。オホ」とオホ返しを行って笑いを誘い、さらに「どちらへ行かれるのか?」と聞きます。

すると女は「東大寺まで・・。我が子が僧侶になっている噂を聞きつけ会いに来ました。」「我が子は、このような手彫りの観音像を持っています。」

それを聞いた良弁はしばらく沈黙しましたが、その後、フトコロから手彫りの観音像をスっと取り出し、2人は30余年ぶりの感動の再開をはたしたというお話です。

この逸話は歌舞伎や浄瑠璃、舞台劇の題材にもなり、他に「良弁杉由来」「二月堂良弁杉」などという演目で現在でも上演されています。

 【その5.】「建久御巡礼記」から見る良弁杉の由来

建久御巡礼記(たてひさごじゅんれいき)では、ワシがさらったという話は一切なく、良弁が見習い僧のときに東山の大きなイチイの木の根元に草庵を建て、執金剛神を奉安して「聖朝安穏増長 福寿」と祈願していたと記録されています。

しかしこの木は1113年(天永4年)9月に倒壊して、その後枯れたようです。

すなわち、これらの事実から察するに、当初は杉ではなく、イチイの木が生えていた可能性もあるということです。


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「良弁杉」と呼ばれ始めた時期はいつから??

「良弁杉」という呼称ついて、いったいいつから呼ばれ始めたのかが気になってくるとことですが、現在までの古い記録では1887年(明治20年)に上述、「南都二月堂良弁杉由来」という演目の人形浄瑠璃が大阪の「彦六座」という施設で上演されていたことが記録に残されているとのことです。

他にも、「南都東大寺境内真図」という古書物には「1892年(明治25年)・良弁杉」という記述も見られます。

この事実から概ね明治20年頃に「南都二月堂良弁杉由来」が上演されたあたりから、良弁僧正の名前が広まり、南都二月堂良弁杉由来を観た人たちによって「良弁杉」と呼ばれるようになったものが広まっていったと考えることができます。

ただ、江戸時代後期に編纂された「大和名所図会」の記述によれば、良弁僧正の方も別称で「金鷲仙人」と呼ばれていることから江戸時代後期から良弁杉と呼ばれていた可能性も示唆されます。

良弁杉の歴史

初代(1代目)の良弁杉

画像引用先:東大寺

先代の良弁杉は樹齢約600年、高さ約21.2mの巨木でしたが、残念ながら1961年(昭和36年)9月16日の第2室戸台風が奈良に直撃したため地面から10mの高さで折れ曲り、倒壊しました。

また、かろうじて根元から10mまでは残りましたが、それでも真っ二つに引き裂かれた姿だったようで、台風の惨状を物語るほどの姿だったといいます。

ちなみに10mより先の部分は手前にある重要文化財指定の「閼伽井屋(あかいや)」「食堂(じきどう)」へ直撃する形で倒れたようで、1973年から執り行われた昭和の大修理の際に修理されています。

この高さ約10mの切り株は、その後、保護されて人為的に再生が試みられましたが、その結果むなしく、昭和41年に枯れてしまい、伐採に至っています。

2代目の良弁杉

良弁杉は単なる杉ではなく、なんといっても東大寺を開山した良弁僧正と所縁のある杉ということもあり、再び良弁杉の植栽が試みられます。

その結果、残念ながらうまく育たず、けっきょく枯れてしまいます。

3代目の良弁杉

1967年(昭和42年)に2代目の杉の種から育てた杉の苗が植栽されました。つまり現在の良弁杉は、人為的に手植えされた杉ではなく、2代目の杉の種から育っているとのことです。

なお、初代と2代目の良弁杉の切株や根元の一部は、現在の良弁杉の周りの地面に残されています。良弁杉下の石碑が目印です。(石碑の周辺に根っこが見えます)

良弁杉の場所

良弁杉は東大寺境内の二月堂の堂舎の手前の芝生の部分に自生しています。

二月堂は大仏殿から徒歩約5分ほどの場所に位置します。懸け造りと呼称される舞台造りの堂舎が崖に面して建てられているのが特徴的です。

例年3月には有名な修二会(しゅにえ/お水取り)の法要が執り行われることで知られています。

二月堂までの行き方は以下の別ページを参照してください。

 なぜ「二月堂」っていうの?奈良 東大寺・二月堂の「正式名称・歴史・宗派・行事(イベント)」について

終わりに・・

この良弁杉は現在もまだ成長中であるとのことからまだまだ成長するようです。ちなみに屋久島(鹿児島県)に自生する杉の中には高さ50mのものも存在するようです。

杉は樹木ですが、桜と同じように花弁をつけて2月〜4月に開花します。また、この時期、花弁から花粉も噴出しますので、花粉症の方はご注意ください。

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