二月堂・遠敷神社
創建年
不明
推定:752年頃 ※平安時代
建築様式(造り)
入母屋造り
妻入り
正面向拝付属
屋根の造り
本瓦葺き
法要(儀式)
二月堂・修二会
御祭神
彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)
遠敷神社の読み方
東大寺の境内には難しい漢字の羅列で表記されたお堂や仏像がありますが、「遠敷神社」は「おにゅうじんじゃ」と読みます。
別名表記では「小丹生神社」とも書かれるようです。
「遠敷」の意味
遠敷神社の「遠敷」とは、遠敷明神を祀る神社であることから「遠敷」が付されていますが、実はこの神様、福井県小浜市の土地神だとされています。
しかしなぜ、福井県の土地神が東大寺境内に鎮座しているのか?という大きな疑問が出てきますが、これについては、東大寺・二月堂の修二会の起源で語られるように福井県の土地神が修二会のお水取りの水の神でもあるからです。
それと他に「遠敷」には別の意味合いもあります。
「遠敷」の別の意味
現在はもうすでに廃村になり「小浜(小浜市)」という地名に変わっていますが、福井県小浜市にはかつて「遠敷郡」や「遠敷村」という村が存在し、当地の土地神が「遠敷明神」と呼ばれいたのです。
その他、遠敷郡には「遠敷川(おにゅうがわ)」という川が流れており、実はこの川の水がはるばる東大寺二月堂の閼伽井屋(あかいや)、通称「若狭井(わかさい)」へ流れついていると伝えられています。
遠敷明神は、遠敷川にいたとされる2匹の鵜(う)を操り、岩盤を割いて遠敷川の水を東大寺境内まで引き込んだことから「遠敷川の川の神」だとも考えられます。
遠敷神社の御祭神「彦火火出見命」とは?
この遠敷神社の御祭神は名前は「遠敷」なのに対して、なぜか御祭神は「彦火火出見尊」です。
彦火火出見尊は、天孫(天照大御神の甥神)・「天津彦彦火瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」の2番目の子供にあたり、母神は大山祇神の娘である「木花開耶姫(このはなさくやひめ)」です。
日本の初代天皇とされる「神武天皇」の叔父にあたります。
彦火火出見尊は別名で「山幸彦」と呼称され、生まれながらに「幸」と呼ばれる「釣り針」と「弓矢」を生まれながらにして持っていたとされる神です。
古事記においては「天津日高日子穂穂手見命(あまつひこ ひこほほでみ の みこと)」と表記されることから稲穂が成長する過程を表現した名前であることから、稲穂の神でもあります。
しかし、東大寺においてこの神様は別名で「遠敷明神」と云われ、これにちなんでか当神社の名前も「遠敷神社」とされています。
「遠敷明神」とは「若狭彦神社(わかさひこじんじゃ)の神」
福井県小浜には「若狭彦神社(わかさひこじんじゃ)」と呼ばれる神社があります。この神社はなんと!古くから別名で「遠敷明神」と呼ばれています。
この神社の御祭神こそが、この遠敷神社の御祭神である「彦火火出見命」そのものであり、すなわちこの神社の御祭神を二月堂に勧請(招いて)して祀ったことになります。
若狭彦神社の神を祀った理由
若狭彦神社の神を祀った理由は、二月堂・修二会「お水取り」と大きな関係性があるからです。
これについては、若狭彦神社の神宮寺であった「若狭神宮寺(わかさじんぐうじ)」では、例年3月2日になると遠敷川の「鵜の瀬(うのせ)」にて「お水送り」という儀式を執り行いますが、なんと!お水を送る先が東大寺二月堂前にある若狭井(閼伽井屋/あかいや)と聞けば驚かれますでしょうか。
ちなみに鵜の瀬から東大寺二月堂まではザッと距離にして100㎞以上は離れています。
例年3月2日ということは、東大寺でお水取りが行われる3月12日の「10日前」ということになりますが、「10日前」という期日が設定された理由は、なんと!小浜からはるばる東大寺へ送った水が到着するのが10日後だとされているからです。
さらになんと!摩訶不思議なことに閼伽井屋の中の若狭井もこの日になると事実、水の量が増えるそうです。
「若狭神宮寺」に関しては「若狭彦神社」の神願寺として泰澄(たいちょう)という僧侶によって開創されており、以降、鎌倉時代には別名で「若狭彦神社別当寺・神宮寺」と呼ばれていたことから察しても、若狭彦神社とは奈良時代から深い所縁があったことになります。
若狭彦神社と若狭神宮寺の位置関係
遠敷明神は「遠敷川の神」でもある
遠敷明神は東大寺に初めて現出したとき、白色と黒色の2匹の「鵜(う)」を遠敷川から呼び寄せたと云われますが、まさにそれは川の神だからこそなせる所業です。
さらに遠敷川から大量の川水を噴き出させるなどの所業も川の神の力があってことです。
なお、上述した若狭神宮寺の「お水送りの儀式」は、最終的に遠敷川の「鵜の瀬」という日本名水100選にも選出されている場所で、午後6時から祈念された香水を流す儀式です。
遠敷明神は「鉱山資源を守護する神」??
これはあくまでも1つの考察になりますが、「遠敷(おにゅう)」を別名表記で表せば「小丹生(おにゅう)」とも書かれます。
たとえば、平城京や藤原京などから出土した木簡(もっかん)などには「小丹生郡」という地名表記されています。
それがおよそ奈良時代後期、元明天皇の治世の頃から「遠敷」に表記が変わっています。
ちなみに「小丹生」の「丹」は、「水銀」や「硫黄」を意味します。これは大仏建立の際に大量の「水銀」が使用された事実から、おそらく当神社が東大寺大仏建立に携わった鉱産資源の加工を行った人々を祀るための鎮守社という見方もできます。
これについては実際にかつての遠敷は「水銀の産地」だったことが明らかにされています。おそらく大仏建立の際、ここからも大量の水銀が採取されて、はるばる東大寺まで運ばれたものだと推察できます。
遠敷明神は「渡来人の鎮魂の神でもある」
これはあくまでも推察にはなりますが、大仏殿と鐘楼の間に「辛国神社」という神社が鎮座していますが、この神社にはかつて大仏建立に携わった辛国(朝鮮半島)の人々の鎮魂のための神社だと云われます。
大仏建立当時、鉱産資源を加工する技術は日本にはなく、おそらく多くの渡来人たちの技術力が注がれたのだと思われます。
その渡来人たちを祀るために東大寺境内の諸所に「辛国神社」や「遠敷神社」などの神社が鎮座していても何ら不思議ではないということです。
遠敷神社は二月堂の鎮守社
遠敷神社は以下の3社と合わせて二月堂を守護する「総神所(そうじんしょ)」と尊ばれ、古来、修二会の守護神として篤い崇敬が寄せられています。
- 飯道神社
- 興成神社
- 遠敷神社
遠敷神社の歴史
遠敷神社の創建年は不明とされていますが、東大寺の寺伝によれば752年に修二会が始められたということなので752年頃と言えます。
東大寺に伝承される古書「東大寺要録」によれば遠敷神社の祭神「遠敷明神」が別名で「功徳水」とも呼ばれる「閼伽水(あかみず)」を奉納したとの言い伝えがあり、二月堂で執り行われる最大の儀式「修二会」においては儀式前にこの神社へ詣でるシキタリがあります。
なお、現在のような社殿はおよそ1900年(明治33年)以降に造られたようです。
遠敷神社が創建に至った理由
遠敷神社が創建に至った理由として、東大寺にはこんな逸話が残されています。
なんでも実忠和上が修二会を初めて開始したとき、その修二会の行法の中で13700という神様の名前が読み上げられる神名帳を読む行法がありますが、最初、実忠和上は実際に13700の神々に声をかけて集合してもらったそうです。
しかし、ただ1人だけ集合に遅れてきた神がいましたが、その神様こそが「遠敷明神」です。実はこのとき遠敷明神は魚釣りに夢中になっていたため、簡単に釣りを止めることができませんでした。
他の神々や実忠和上は心配しましたが、ようやく遠敷明神が現れたのが、もう修二会も終わりに近い3月12日の深夜(3月13日の午前2時)だったのです。
他の神々は当然のごとく、遠敷明神を叱咤し非難します。
そこで「遠敷明神」は実忠和上や他の神々にこう告げます。
「遅参した詫びに本尊に供えるための聖水を若狭から送って献じよう。だから勘弁して欲しい。」
そう告げると、修二会の会場となった二月堂を出て、スタスタと石階段を降りて行きます。
そして、石階段を降りきった踊り場の右脇にあった大岩に目をやり、なにやらその大岩の前でブツブツと呪文のようなものを唱えはじめるのです。
そるとなんと!驚くことに大岩が真っ二つに割れて、中から黒と白の鵜が2匹飛び出してきて、そのあとから大量の水が噴き出してくるじゃアーリマせんか。
この後、僧侶たちはすぐさま切り石で周囲を囲んで井戸を造り「若狭井」と呼びならわしたとそうな。
のちにこの若狭井には覆屋(おおいや)が建てられ、現在では「閼伽井屋(あかいや)」と呼びならわされています。また、この時の岩から飛び出してきた黒と白の2匹の鵜は閼伽井屋近くの「興成神社」に祀られることになります。
そして遠敷明神は、この遠敷神社に祀られるようになったというワケです。ウフ
二月堂・遠敷神社の場所(地図)
遠敷神社は二月堂の北東に鎮座する神社です。小さな覆屋(おおいや)に見えますが、二月堂を守護するれっきとした神社です。
二月堂の修二会に関しては以下の別ページにてご紹介しています。