奈良・東大寺「正倉院」の「歴史(年表)・由来・建築様式(内部構造)・大きさ・建てた人物」など

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奈良・東大寺「正倉院」の「歴史(年表)・由来・建築様式(内部構造)・大きさ・建てた人物」など

奈良「正倉院(正倉)」【国宝】【世界遺産】

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創建年

  • 不明
  • 推定:759年(天平宝字3年)3月以前
再建年

1913年(大正2年)※解体修理

建築様式(造り)

  • 高床校倉造
  • 寄棟造
  • 一重
    ※高床式倉庫
屋根の造り

  • 本瓦葺
材質

  • ヒノキ
大きさ

  • 正面:約33m
  • 奥行:約9m
  • 床下の柱の高さ:約2.5m
  • 地上から屋根までの長さ:約14m
  • 丸柱の直径:約60cm
  • 丸柱の数:縦4列×横10列=40本
重要文化財指定年月日

  • 1997年5月19日(平成9年5月19日)
国宝指定年月日

  • 1997年5月19日(平成9年5月19日)
世界遺産登録年月日

  • 1998年12月2日(平成10年12月2日)
発願者

  • 光明皇后

「正倉院・正倉」の読み方

正倉院の読み方は「しょうそういん」と読み、「正倉」は「しょうそう」と読みます。

この東大寺・正倉院(正倉)は、別名で「シルクロードの終着駅」とも呼称されています。

また、東大寺では古くから「三蔵(みつくら)」とも呼んでいるようです。三蔵と呼ばれる理由は後述していますが、正倉には「3つの蔵」、すなわち「3つの部屋」があるためです。

ところで・・「正倉」とは?

「正倉」とは、飛鳥時代あたりに成立した「律令」と呼称される「法律」に基づいて、税金や収穫した米(年貢)などを収納しておくための倉庫のことを「正倉」と言います。

律令の「律」は現代の「刑法」、「令」は現代の「民法」や「税法(行政法全般)」にあたります。

律令制度は、中国の「隋」や「唐」で用いられた法律による法治国家の在り方で、これを日本が真似たものが律令制度になります。

この律令制度の中に「税金や年貢を納めなさい」と言う法律があり、これに沿う形で正倉に「米」や「税金」が収納されました。

つまり、正倉と言うのは「米」や「税金」その他、「お宝」を収納しておく倉庫のことを指します。

その中でも、東大寺の正倉院のように「宝物類」を専門に収納した倉を「宝庫」とも言います。

えっ?!正倉院は1つではなかった!!

現代では、正倉院と聞けば奈良・東大寺境内の正倉院か、九州に造営された「西の正倉院・百済の館」が唯一、思い当たる「正倉院」です。

しかし、奈良時代には正倉院はいくつも存在しました。

詳しくは、正倉院ではなく「正倉」が日本各地の官庁や大規模な寺院の境内に、いくつも存在していたようで、これらの正倉に納められた税金や米などを種類ごとに分けて収納していたようです。

その中でも特に最大の大きさを誇った正倉が現在の東大寺・正倉院であり、他の正倉は廃れて自然的に倒壊、もしくは焼失して歴史から姿を消して行きます。

東大寺・正倉院も過去に幾度か兵火による焼失や倒壊の危機に晒されてきましたが、約1300年経た現代に至っても正倉の1つが現存している理由の1つとして、ひとえに天皇の所有物である認識から勅命なしには近づくことや開けることができないと言ったことも理由に挙げられます。

正倉院の建築様式(造り)

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校倉造

奈良・東大寺「正倉院」は、「高床式校倉造り」と言う建築様式で造営されています。俗に日本で最初で最古の「ログハウス」とも云われ、その理由と言うのが正倉院の「校倉造」と言う建築様式にあります。

「校倉造」とは、「あぜくらづくり」と読み、三角形にカットされた木柱を「井籠組み(せいろうぐみ)」に積み上げて四辺に壁面を造って行く建築様式です。

「井籠組み」とは、「井」の形状に木柱を配置して積み上げて壁面を造って行くことからこの名前が付されています。三角形に木柱をカットする理由とは、四辺の平行を保ち室内を平面に演出し歪みを減らすためです。

ただし、厳密には三角形ではなく六角にカットされています。

「高床式」と「ネズミ返し」

正倉院は米や食料なども保管されていましたので、地面に接して正倉を建ててしまうと「ネズミ」に保管した食料を食べられてしまいます。

そこで床面を底上げし空中に浮かせる「高床式」で造営されています。

しかし、これでも素早いネズ公は、柱を伝って高床となった床面にヘバリ付き倉庫内に侵入するので、各柱と底上げされた床面との間には大きな板が設置されています。

この板を用いた「ネズ公を追い払うカラクリ」のことを「ネズミ返し」と言います。

ちなみに飛び出た部分(鼻先)には銅板がハメ込むようにして据えられていますが、これは江戸時代(元禄年間)の修理の際に付けられたものです。

正倉院の屋根「本瓦葺(軒丸瓦)」

現在、見ることのできる正倉院の姿は、約750年頃の創建時の姿をそのままを現在に伝えていると云われています。

しかし歴史が好きな方なら気づいたかもしれませんが、正倉院の屋根は「軒丸瓦」になっています。

つまり「瓦」屋根です。

歴史好きな方なら、このような疑問がド頭に思い浮かぶのではないでしょうか?

『あれっ?!750年頃に”瓦屋根”が存在したの?』

実は、天平時代にも「瓦」が存在しており、瓦を作る技術や風習は仏教文化と共に中国から伝来しています。天平時代の瓦は南倉の屋根の一部にわずかに残しつつ、部分的に「鎌倉時代から室町時代」「江戸時代」に作られた瓦であることが判明しています。

つまり、天平時代、鎌倉時代、室町時代、江戸時代と、それぞれの時代の瓦が入り混じって葺かれていることになり、これは時代を経る過程で都度、補修されてきたことを意味します。

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⬆️正倉院の屋根瓦時代区分図(宮内省パンフレット引用)

上図を見れば天平時代の瓦は南倉の南面の屋根の両端の一部分にしかなく、その大半は2011年(平成23年)10月から開始された屋根葺き替え工事の際の屋根瓦であり、本工事は平成25年11月に完了しています。

鎌倉時代や室町時代、江戸時代、明治時代、大正時代、昭和時代の瓦は東面(正面)と南面にしかないことが分かります。

以上、正倉院の軒丸瓦は全部で382本、軒平瓦378枚で構成されており、現在見ることのできる瓦は天平時代の瓦を再現しつつ、前述、2011年(平成23年)〜平成25年の葺き替え工事によって新しく葺き替えられたものになります。


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正倉院を建てた人物

正倉院を創建した人物は、東大寺創建の発願者である「聖武天皇」の嫁はんである「光明皇后(こうみょうこうごう)」です。

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聖武天皇が存命中は現在の正倉院・正倉(宝庫)は建っていませんでしたが、聖武天皇が崩御された後に光明皇后の発願により造営されています。

つまり、正倉院を建てた人物は「光明皇后」と言うことになります。

光明皇后が正倉院の造営に至った理由

聖武天皇を深く愛していた光明皇后は、聖武天皇の死を痛く悲しみました。聖武天皇の遺品を抱き抱え、夜通しすすり泣く声が耐えなかったと言います。

ある時、光明皇后は「夫の遺品が手元にあるかぎり、常に夫を思い出してしまい、とても生きていられない」との思いから、当時、シルクロードから伝来し聖武天皇に献上された数々の宝物や遺品をまとめて東大寺の盧遮那仏(大仏さん)へ奉納しようと考えます。

そこで多数あった夫の宝物や遺品を奉納するために、盧遮那仏の膝下である東大寺・大仏殿の付近に建物を造営して、その中へ収め、この建物こそが現在見ることのできる「正倉院・正倉(宝庫)」となります。

『正倉院』の名前には本当の意味や由来がある??

創建当初の東大寺の正倉の規模は特に大規模なもので、境内には他にいくつかの正倉が存在したと云われており、聖武天皇の遺品を奉納した正倉と他の正倉群をまとめて「正倉院」と総称で呼称したようです。

現在、姿をとどめている正倉は1つだけとはなりますが、古来、「正倉院」と呼称されてきた名残が現在に至っても息づいていることになります。

正倉院の内部の構造と特徴

東大寺の正倉院・正倉(宝庫)の内部は、「北倉(ほくそう)」「中倉(ちゅうそう)」「南倉(なんそう)」と言う3つの部屋が設置された造りになっており、それぞれの倉ごとに宝物が種類分けして収納されていました。

北倉と南倉の外壁は、校倉造りの壁面で内側は「板倉造り」と呼称される「分厚い板を縦向きに積み上げて壁面」とした仕様になっています。その分厚い板の壁面に挟まれる格好で「中倉」が中央に位置します。

各部屋とも東側壁面の中央部に出入り口があり、2階部分が設置されている造りになっています。

板倉造りとは?

板倉造りとは主柱となる柱を立てて上から溝を掘り、その溝に板を落とすように差し込んで、積み上げていくような板壁の作り方です。

正倉院の場合、溝に差し込んだ板が分厚いので耐久度が増します。その上、密着していますので気密性が高まり、通気性や調湿性にもすぐれます。

正倉院・正倉『北倉』

正倉院の「北倉」には、主に光明皇后が奉納した「聖武天皇のの遺品・宝物」を収めた倉です。

この倉は勅令なし(天皇の命令)には何人も開扉することが叶わず、天皇が自ら書いた「立ち入り禁止」の札が貼り付けられていましたので「勅封倉(ちょくふうぐら)」とも呼称されています。

正倉院・正倉『中倉』

「中倉」および「南倉」には、主に東大寺に伝来した品々が収納されてきました。

その中でも特に重要なお宝が収納されたのが中倉であり、中倉も北倉と同様に天皇直筆の立ち入り禁止の御札が貼り付けられました。

正倉院・正倉『南倉』

前述の通り「南倉」も中倉と同じく東大寺に伝来した品々が収められてきた倉です。中倉よりは、あまりたいしたことがないお宝が収納されてきたようです。

南倉は「綱封(こうふう)」もしくは「僧綱封」といって開扉するためには、「東大寺を管理していた国の長官(別当)」の許可が必要で、同様に「長官直筆の立ち入り禁止の札」が貼り付けられていました。

しかし、明治時代(1875年/明治8年3月)になると政府の管理下におかれ、北倉・中倉と同様に「勅封倉」となっています。すなわち、このとき同時に正倉院の管理権限が東大寺から現在の宮内省へ完全に移管されたことになります。

正倉院『西宝庫・東宝庫』

多くの方が、正倉院と聞けば正倉の姿を思い浮かべ、同様に現在も宝物が正倉の中で収納されていると言ったイメージを持たれる方がいますが、残念ながら現在の正倉院・正倉の内部にはかつてほどたくさんのお宝はありません。

正倉のお宝は一部を残し、最新技術を用いた保存が可能な環境に移動されています。保存できる環境とは、自動空調設備が整った最新型の建物の内部へ保管されているということです。

その保管されている場所と言うのが、正倉を挟む形で正倉の両脇に建てられている「西宝庫」と「東宝庫」になります。

⬆️西宝庫・東宝庫の場所

正倉院・「西宝庫」

  • 竣工年:1962年(昭和37年)
  • 建築様式(造り):鉄骨鉄筋コンクリート造り
  • 設備:空気調和装置完備

「西宝庫」は、修理や整理が済んだ宝物が収納されています。例年、秋口に行われる「正倉院展」では、この倉庫の宝物が出品されます。正倉院展の会期中だけ開扉され、宝物の状態のチェックや点数確認、その他の調査が行われます。現在も勅封倉です。

例年、正倉院展が開始される前の10月初旬に「開封の儀」が執り行われ、宝庫からその年に展示される宝物が出されます。

正倉院・「東宝庫」

  • 竣工年:1953年(昭和28年)
  • 建築様式(造り):鉄骨鉄筋コンクリート造り
  • 設備:空気調和装置完備

「東宝庫」は、現在、修理・修復中の宝物や未修復の宝物が収納されています。

その他、「染織品」や「聖語蔵経巻(しょうごぞう」と呼称される鎌倉期や室町期の東大寺の記録書・経典5000巻が収蔵されています。

正倉院「聖語蔵」

上述した「聖語蔵」とは、もともと転害門の付近に建てられていた東大寺の塔頭「尊勝院」の経倉です。内部には上記、「聖語蔵経巻」が収められていましたが、明治時代に聖語蔵経巻と共に建物も皇室に奉納され、その後、現在地に移築されています。

そして内部の収蔵されていた経巻は上述のとおり東宝庫へ移管されています。

聖語蔵の場所は東宝庫の目の前です。後述する正倉院の見学ルートで正倉を正面に見て左手の方角になります。見学する際、わずかに見ることができますが、丸軒瓦が据えられた瓦屋根に校倉造の高床式の蔵です。

⬆️聖語蔵の場所

正倉院の宝物が約1300年後の現代までも遜色なく現存していた理由

  1. 上述の「勅封制度」があり、何人も天皇や高位僧の許可なしには開扉できなかった
  2. 杉材で作られた「唐櫃(からびつ)」と呼称される先人の知恵の結晶が作り出した「脚つきの箱」の中に宝物が収納されていたため、湿気や遮光、外気、虫食いをほぼ完全にシャットアウトすることができた。
  3. 正倉の造りが高床で温度や湿気の影響が少なく、さらに材質が耐久性のあるヒノキ材であったため長期間、建物の形状を留めることができた。

などが挙げられます。

注目すべき点としては、唐櫃に用いられた杉(すぎ)は宝物を劣化させる二酸化窒素などの有害物質を分解することができるようです。すなわち、「板倉造りの板壁」と「杉材を用いた脚つきの唐櫃」の相乗効果によって、約1300年もの間、宝物が原型を崩すことなく保たれてきたという解釈になります。

唐櫃の大きさ
  • 奥行き:69.8㎝
  • 高さ:49.5㎝
  • 横幅:102㎝

正倉院の歴史

正倉院の向かいにある大仏殿は、歴史に見られるかぎり、過去2回ほど大火事で焼失しています。

1度目は1180年(治承4年)12月28日の平重衡による南都焼討。2度目は1567年(永禄10年)の三好三兄弟と松永弾正の大仏殿の戦いです。

これらの戦火のときも奇跡的に正倉院は類焼をまぬがれています。

1254年(建長6年)6月17日に北倉に落雷があり、火がついてしまいますが、すぐさま扉をもぎとるなどして消化活動を迅速にしたために焼失をまぬがれています。ただし、北倉北側東西2面の扉を壊したために損失にいたっていますが、これだけの損害で済んだのも奇跡としか言いようがありません。

なお、このときの火災の焼痕は現在も北倉に残されています。

さらにあまり記録としては知られていませんが、実は1762年(宝暦12年)2月23日にも芝辻村(現在のならまち付近)で火災が発生し、民家約3000棟および興福寺、東大寺塔頭寺院を飲み込んで焼き尽くすほどの大火事がありました。

しかしこのときも東大寺の南側で火事が発生したこともあってか、奇跡的に類焼をまぬがれています。

正倉院の歴史年表

756年(天平勝宝8歳)

聖武天皇(太上天皇)が崩御。光明皇后が正倉院造営し聖武天皇遺愛の品々を奉納。

760年(天平宝字4年)

光明皇后が崩御される。

1019年(寛仁3年)

藤原道長が東大寺へ行幸。正倉院へも立ち寄り宝物を見学。

1385年(至徳2年)

室町幕府2代目将軍・足利義満が東大寺へ行幸。宝物を見学。

1429年(永享元年)

室町幕府3代目将軍・足利義教が東大寺へ行幸。宝物を見学。

1465(寛正6年)

室町幕府3代目将軍・足利義政が東大寺へ行幸。宝物を見学。その後、蘭奢待(らんじゃたい)(正式名:「黄熟香(おうじゅくこう)」を切り取る。

1574年(天正2年)

織田信長が東大寺へ参拝。宝物を見学した際、同様に蘭奢待を切り取り持ち帰る。

1603年(慶長8年)

徳川家康が正倉院・正倉を修理する。

1875年(明治8年)

東大寺から内務省へ移管され、内務省の管理下に入る。

1877年(明治10年)

明治天皇が東大寺へ行幸。同様に宝物を見学して蘭奢待を切り取って持ち帰る。

1884年(明治17年)

内務省(農商務省博物局)から宮内省へ移管され、宮内省の管理下に置かれる。

1908年(明治41年)

宮内省、省下の「帝室博物館」の管理下に置かれる。

1913年(大正2年)

正倉院・正倉の解体修理が実施される。

1917年(大正6年)

帝室博物館館長に就任した森鴎外(もりおうがい)は、政府高官のみに許可されていた宝物拝観の入倉できる権利を学術研究者も入倉できるように資格の範囲を拡大。

1940年(昭和15年)11月

紀元2600年記念を銘打って東京帝室博物館(現、東京国立博物館)にて正倉院展が開催される。

1946年(昭和21年)

奈良観光協会からの猛烈な打診により、奈良帝室博物館(奈良国立博物館)にて正式に第1回・正倉院展と銘打って正倉院展が開催される。

1953年(昭和28年)

正倉院東宝庫が完成

1962年(昭和37年)

正倉院西宝庫が完成

1997年(平成9年)

正倉院正倉が国宝指定を受ける

1998年(平成10年)

古都奈良の文化財の一角として、この正倉院・正倉が世界遺産に登録される。

現在の正倉院の敷地には本当に何人も立ち入ることができないの??

現在の正倉院は「宮内庁」の管理下に置かれており、正倉院の敷地にも警備員が配備され24時間365日守られていますので関係者以外、立ち入ることができません。

しかし、正倉院の間近ではありませんが、一応、敷地に入って少し近くで見学することはできます。

接近できる距離は、正倉院の建物から10mほど離れた場所です。(「鉄柵」が設置されています。)

これを正倉院・正倉の「外構見学」と呼称し、下記に概要をご案内しておきます。

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奈良・東大寺「正倉院・正倉(宝庫)」外構見学の「公開日程・料金・時間・定休日」

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公開している曜日

  • 月曜日から金曜日まで
公開時間

  • 午前10時から午後3時まで
    ※但し、正倉院展の会期中は「午前10時から午後4時まで」
定休日

  • 土曜日・日曜日・祝日
  • 12月28日から翌年1月4日まで
  • その他、緊急メンテナンス・行事・イベント時
見学料金

  • 無料
見学申込み方法

  • 申し込み手続き不要

正倉院へのお問い合わせ先「住所・電話番号・営業時間・定休日」

住所:〒630-8211 奈良県奈良市雑司町
・TEL:0742-26-2811(宮内省正倉院事務所)
・営業時間:午前10時から午後3時まで
・定休日:土曜日・日曜日・祝日、12月28日から翌年1月4日まで、その他、緊急メンテナンス・行事・イベント時

終わりに・・「杉本神社と正倉」のお話

正倉院の右脇には「杉本神社(すぎもとじんじゃ)」という神社がありますが、この神社には「杉本明神(すぎもとみょうじん)」と呼ばれる神様が御祭神として祀られています。

「杉本明神」と呼ばれる理由は、近くに行けないので分かりづらいのですが、社殿の真後ろに杉の木が3本立っており、その杉の木の根元に立っていることから”杉本”の名前が付けられています。

実は、上述した1254年(建長6年/鎌倉時代)6月17日に北倉に落雷があって火がついたという話をしましたが、これについては次のような伝説も語り継がれています。

なんでも火が付いた後、祠(ほこら)から龍が飛び出てきて口から水を吐き出して火を消し止め、鎮火を見届けた龍はふたたび祠へ帰っていたそうな。

以来、この祠には龍神がお宿りしていると伝えられ、後に社殿が建てられることになり、現在も変わらずに正倉院を見守るかのように真隣に鎮座しています。

ただ、残念ながらこの杉本明神には一般の方が立ち入ることはできません。正倉前に設置された鉄柵の前で遥拝(ようはい)するのみです。

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