奈良 東大寺・戒壇堂(戒壇院)「四天王立像」【国宝】
像高
- 持国天:160.6cm
- 増長天:165.4cm
- 広目天:162.7cm
- 多聞天:164.5cm
素材・造り
- 塑像(そぞう/粘土造り)
※創建当初は「銅造りの像」
造立年
- 755年(天平勝宝7年/奈良時代)
作者
- 推定:国中公麻呂(くになかのきみまろ)
安置場所
- 東大寺・戒壇堂
東大寺・戒壇堂の読み方
東大寺・戒壇堂の読み方は「かいだんどう」と読みます。
東大寺・戒壇堂に関しては当サイトの以下↓の別ページにてご紹介しております。
東大寺・戒壇堂(戒壇院)・四天王立像の特徴・見どころ
実はこの四天王像は、当初から戒壇堂にあったものではないことが明らかにされています。
作風や素材に、伝・日光菩薩・月光菩薩立像(東大寺ミュージアム蔵)と共通する点が多く、元々は共に東大寺・法華堂(3月堂)に祀られていたと考えられています。
しかし現在までで分かっていることは、かつては東大寺境内に位置する指図堂で安置されており、江戸期の享保年間の再建の際に、現在の戒壇堂へ移されてきたことまでが明らかにされています。
ちなみに4尊の像の位置は法華堂の四天王像と同じで、真ん中の多宝塔を囲むよう(守護するように)に配置されています。
制作者を記録したものはありませんが、やはり作風などから大仏の鋳造にも貢献した「国中公麻呂(くになか の きみまろ)」だとする説も出ています。
像容に関しては、当初は彩色が施されていたようですが、現在はご覧のとおり、完全に彩色が剥がれ落ちてしまい彩色であったのが嘘のように見えます。
特に注目すべき見どころとなるのが、像が着用している中国風の鎧の両肩の部分です。
これは実際に間近で見ないとなかなか分かりにくいのですが、よく見ると「口を開けた動物の頭部」が飾り付けられているのが見えます。
この動物に関しての由来は定かではありませんが、当時の時代背景や流行した作風が伺えます。
ところで・・四天王とは??
四天王はインドの南方の海の果てにあるとされる「須弥山(しゅみせん)」の東西南北を守護しています。
- 持国天は「東」
- 増長天は「南」
- 広目天は「西」
- 多聞天は「北」
須弥山の主は須弥山の頂上の「善見城(ぜんけんじょう)」に住む「帝釈天(たいしゃくてん)」であり、つまり四天王はこの帝釈天の配下でもあります。
四天王を祀っている有名な寺院として、聖徳太子創建の大阪・四天王寺があります。
四天王像の特徴
右前方に立つ持国天像は口を閉じ、左足で邪鬼を踏みつけているのに対し、左前方の増長天像は口を開き、右足で邪鬼を踏んでいます。
後方の広目天像と多聞天像は、目を細めた静かな怒りの形相が共通しています。
さらにこの四天王像をよく見れば、黒目の部分に石が使われているのが分かります。これも四天王像の大きな特徴の1つで、生き生きとした印象を受けます。
持国天像は「刀」、増長天像は「鉾(ほこ)」、広目天像は「筆」と「経巻」、多聞天像は「宝棒」と「宝塔」を持っています。
持国天は、左右に羽のような形の飾りがついた「兜」をかぶっています。
四天王の中でもっとも力が強いのは多聞天とされており、多聞天は1人の時は「毘沙門天(びしゃもんてん)」と名乗っています。
これらの四天王像は、同じく戒壇堂の内部で安置されている「多宝塔」を中心として配置されており、その周りを周回しながら拝観できるようになっています。
東大寺・戒壇堂の四天王像は創建当初は銅造りだった?!
実は東大寺・戒壇堂の四天王像は創建当初は「銅造り」だったと伝承されています。
これがどのようなことかと申しますと、創建当初の四天王像は過去に3度、東大寺を襲った「兵火による火災」によって焼失したとされています。
よって、以前の四天王像の代わりに「東大寺の中門堂」に安置されていた「塑像の四天王像」を遷してきたようです。
ここで「東大寺の中門堂」ってドコにあるの??・・などと言うい疑問が出てくると思いますが、「東大寺の中門堂」とは、かつて東大寺に存在していたお堂であり、現在は存在しない「幻のお堂」となります。場所で言うなれば、現在の指図堂のあたりに存在したと云われます。
東大寺・戒壇堂(戒壇院)の場所
東大寺・戒壇堂(戒壇院)は、大仏殿を向かってみて左側、東大寺幼稚園の前方に位置します。
戒壇堂への行き方・拝観料金については当サイトの以下↓の別ページにてご紹介しております。