奈良 東大寺・転害門【国宝】
創建年
- 不明
- 推定:762年頃(天平宝字6年/奈良時代)
再建年
- 1194年~1195年(建久5年~6年)
昭和の大修繕
- 1931年~1932年(昭和6年~7年)
※老朽柱3本取替え
建築様式(造り)
- 切妻造り
- 三棟造り
- 8本柱※八脚門(本柱含んで12本)
- 一重
屋根造り
- 本瓦葺
大きさ
- 三間一戸
- 横幅:約17.5m
- 高さ:約10m
重要文化財指定年月日
- 1899年(明治32年)4月5日
国宝指定年月日
- 1952年(昭和27年)3月29日
「転害門」の読み方
転害門は「てがいもん」と読みます。
「転害」の名前の由来
考えてみれば「転害門」とは、ヘンテコリンりんりんモサモサぴよポンっ!・・的な風変わりな名前をしていますが、この理由は転害門が建つ地名の「手貝(てがい)」が由来していると云われています。
・・こホンっ!
この手貝が時代を経る過程でナマり、「転害」と付されたと考えられていますが、このほか、この手貝には以下のようにも書かれます。
- 手蓋
- 手掻
- 輾害
- 輾磑
- そして、「転害」
・・などのようにも書かれます。
参考文献:奈良坊目拙解
「転害門」と呼ばれるようになったのはいつ??
平安時代末期には「手掻」「転害」の文字が、当て字としてか、書物に見えはじめたことから、およそ平安時代末期から「転害門」や「手掻門」と呼ばれるようになったと推測されます。
このように時代々々で呼称が変わっていることから、その変遷がうかがい知れます。
東大寺・転害門の名前の由来と意味
東大寺・転害門の名前は少し特徴的な名前をしています。
この名前の由来には諸説あって、以下のような由来があるようです。
・転害門が建っているあたりの古来からの地名の「手貝」「天貝」「手蓋」に由来した「あて字」という説。(上述)
・祭祀に基づけば、転害門は大仏殿から見て「吉祥の方位」に位置し、「害を転じる(害を他の方角へ退ける)」と云わた説。
・古来、大分県の宇佐神宮の祭神・八幡神を東大寺の鎮守としてお招きした際、東大寺に向けて通る「神幸道路(一条大路)」にて、殺生が禁止された由来からの「害が転んだ=転害」という説。
・転害門の東側に「てんがい」と呼称される中国・唐で作られた唐臼(石臼)が「輾磑」と書かれたが、これがナマり「輾磑」→輾害へと転じた。
・東大寺の境内南西に位置する「手向山八幡宮」の法要・「手掻会(てがいえ)」の神輿の御旅所(開始の場所)が転害門であったことから「手掻会(てがいえ)⇒てんがいえ⇒転害門(てがいもん)」と「語呂を合わせ当てた」という説。
・「東大寺四聖の行基」が「インドからのバラモン僧正・菩提僊那(ぼだいせんな)」をこの転害門で出迎え時に、手を掻くように動かして招いき入れたことから「手掻門」と呼称された説。
・上記と類似していますが、八幡宮の神が自らの御手を振って門から諸神を招き入れた故事から「手掻門」とされた説。
他にも、鎌倉時代、大仏殿での法要(開眼供養)に参列した源頼朝を暗殺するために、伊藤景清(悪七兵衛/平景清)なる人物が転害門に潜んで様子を伺っていた伝記から別名で「景清門」と呼称された説などもあります。
伊藤景清の伝説は日本各地に残されているようで、京都・清水寺にも「景清の爪彫り観音」が残されています。
また、かつて東大寺の伽藍はちょうど平城京の東側の大通り「東七坊大路」沿いに面しており、そんなことからこの通り沿いに門が設けられ、北端から以下のような門が存在していました。
- 佐保路門(さほじもん)
- 中御門
- 西大門
実はこの中の「佐保路門」が「かつての転害門の呼称である」と云われており、他にも「転掻御門」とも呼ばれていた歴史もあります。
時代を経る過程で伽藍の様相が変化し、それに伴い呼称が推移していったものだと考えられます。
転害門の別名
転害門は別名で景清門(かげきよもん)とも呼ばれます。現在では一般的にこの名称で呼ばれることはまずありませんが、平安以降このように呼ばれた時期があったようです。
景清門と呼ばれた理由は後述していますが、景清という落ち武者が宿敵である源頼朝が東大寺へ来訪する話を耳にし、暗殺をもくろんでこの門に身を潜ませてためにこのような名前が付されたと云われます。
東大寺・転害門の歴史・見どころ
上記のようにこの転害門は平城京の東側の大通りと隣接していたこともあり、ひときわ注目を浴びていましたが、残念ながら転害門よりもさらに大きな門がかつて転害門の南側に存在していました。
その門こそが「西大門」です。
西大門にはかつて聖武天皇の筆で「金光明四天王護国之寺」と大きく書かれた扁額(へんがく)が飾られており、東大寺の正門として位置づけられていました。
平城京の正門「朱雀門」の前の二条通り沿いに立つ西大門は、現在の南大門をはるかに凌ぐ規模であったと伝えられています。
東大寺は過去に幾度かの火事に見舞われています。
その中でも「1180年(治承4年/鎌倉時代)」と「1567年(永禄10年/戦国時代)」の二度の火災(兵火)が特に規模が大きく、この火災によって、かつて東大寺に存在した大伽藍のほとんどは燃え尽きてしまいました。
その中でも奇跡的の残った遺構の1つであるのが、この転害門です。
つまり現在みることのできる「転害門は創建当初から存在する門」ということになります。
類焼を免れた理由は、単純に「転害門が立つ立地」によるものと推察することができます。
まさに伽藍の北西の端という立地が奇跡につながったと言わざるとえません。
東大寺・転害門の建築様式(造り)・特徴
東大寺・転害門の見どころ・その1「二重虹梁蟇股」
転害門の妻側の屋根には、形状は少し異なりますが、法隆寺と同様の「蟇股(かえるまた)」で造営されています。
この蟇股は「二重虹梁蟇股(にじゅうこうりょうかえるまた)」と呼称する天平時代に流行した建築様式であり、確かに天平時代に造立された証拠を示すものでもあります。
このような二重虹梁で組み上げられているということは、下記のような「三棟造り」で造られていると言うことになりんす。
東大寺・転害門の見どころ・その2「三棟造り」
この転害門は手前に柵が施されており、通常は近づくことができませんが、角度を変えて下から見上げると屋根の中にさらに2つ屋根があるのが視認できます。
このように屋根が3つある造りを「三棟造り」と呼称し、主に奈良時代に流行した建築様式になります。
同じ奈良では薬師寺の中門や法隆寺の東大門などでも観ることができます。
東大寺・転害門の見どころ・その2「組入天井」
転害門の手前側の門の天井は「組入天井(くみいりてんじょう)」と呼称される造りとなっています。
組入天井とは、早い話が格子天井の裏側にもう1枚、板を張った天井のことです。
特徴としては、格子に用いる用材(木)の幅が細く、格子の間の四角が大きく造られます。組み上げる時は、まず、梁(はり)や桁(けた)の間に角材を縦横に挿し渡して格子を組んでいきます。
このような組入天井は奈良時代から平安時代前期に見られる建築様式で、特に格式の高い建造物に用いられた天井のことです。
この天井の造りからも、天平文化の遺構であることが見受けられます。
組入天井は、年数を経ることでの建物の劣化に起因する「建物全体の歪みを正すため」の建築技法であるとも云われております。
なお、東大寺・転害門も実は鎌倉時代に大修繕が行われており、所々に鎌倉時代の建築様式で補修された遺構を見ることもできます。
その中でも特に屋根の建築様式は鎌倉時代の特色を物語る屋根になっていますが、門全体として捉えた時に、天平文化の遺構が多く取り残されていることから国宝へ登録されるに至っております。
東大寺・転害門の見どころ・その3「八脚門」
東大寺の転害門は三間一戸・一重の八脚門になります。
八脚門とは「やつあしもん・はっきゃくもん」と読み、これは8本柱が備わる門という意味になるのですが、実は厳密には柱が12本あります。
12本柱があるのに、あえて「八脚門」と呼称される理由はお分かりなりますか?
ちょっと考えてみてください。
・・
・・
・・
残念無念~!!ハズレです。
正解は、中央横一線に並ぶ本柱4本を除いた「前4本、後ろ4本の柱」が対象となり、合計で8本の脚があると解釈されることから「ハ脚門」と呼ばれています。
ちなみにこれは余談ですが、京都・清水寺の仁王門の奥にある「轟門(とどろきもん)」は、この東大寺・転害門を模して造営されたと云われています。
門の中央部の大注連縄の意味
それとこの転害門の手前中央部には大注連縄が飾られていますが、この大注連縄は地元・川上町などの崇敬者によって奉納されたものです。
毎年、10月5日の「転害会(てがいえ)」の時に大注連縄が飾り立てられ、その下に3基の神輿が置かれます。
神輿を3基置く理由は、奈良時代に九州の宇佐八幡(宇佐神宮)からやって来た八幡神の神輿が、東大寺境内の表門になるこの転害門まで来たところで一旦、輿を下ろして置いたことに由来します。
転害会では、まず、手向山八幡宮から神輿が出発します。
転害会の神輿のルート
「手向山八幡宮」→「東大寺大仏殿」→「正倉院」→「転害門(てがいもん)」へ到着。
渡御の所用時間
- 約1時間
神輿は3基並べられた後、転害門にて東大寺の法要や、手向山八幡宮の神事が営まれます。
神輿の高さは約2.4メートル、幅約1.2メートル。紫の錦に包まれた黒漆塗りの骨組みと、その頂には金色の鳳凰(ほうおう)が据えられています。
神輿が動くたびに金具がシャン♪シャン♪と音が鳴り、神輿が参道を進んでいく様子は東大寺の秋の風物詩に彩りを添えます。
転害会の開催日時・時間・場所
- 開催日:10月5日
- 開催時間と場所:午前9時〜(手向山八幡宮)/午前11時30分〜(転害門)
東大寺・転害門の場所【地図】とアクセス(行き方)
転害門は、大仏殿北西の方角に位置する正倉院と、聖武天皇陵墓の間にあります。
国道369号線の「転害門交差点」付近にある「奈良市立鼓阪小学校」の近くにあります。
- 大仏殿から徒歩約5分/距離650m
住所
- 奈良県奈良市雑司町406-1
バスでの交通アクセス
転害門の最寄りバス停
上り(奈良駅方面へ向かう場合):今小路バス停(下車して真後ろが転害門)
下り(奈良駅方面から来る場合):手貝町バス停(下車して徒歩約3分)
注意点
奈良駅方面から→転害門へアクセスする場合、「今小路バス停」ではなく、「手貝町バス停」の方が若干、最寄りになります。
と言いますのも奈良駅方面からのバスが停車する今小路バス停は転害門から離れており、下車後、徒歩約4分はかかります。
東大寺・転害門の見学できる時間(拝観時間)・拝観料金
- 見学自由(24時間)
※門の通り抜け・門の中への進入は禁止
- 拝観料金:無料
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