手向山八幡宮のご利益や絵馬の秘密と拝観料(入れる時間)を….そんな知りたい❓

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東大寺・中門を正面に向かいみて右手の方向には鏡池があります。その鏡池沿いを若草山の方へ歩いていくと、やがて鳥居が見えてきます。

この鳥居をくぐって更に進むとやがて真っ赤な朱色をした巨大な門が眼前に現れます。

この門こそが手向山八幡宮の入口の門となります。

手向山八幡宮は古来、東大寺を守護する神社として、切っても切り離せないような間柄です。

以下では、この手向山八幡宮についてご紹介しています。

奈良・手向山八幡宮【史跡名勝天然記念物】

創建年

749年(天平勝宝元年)

再建年

1250年(建長2年)

主祭神

八幡大神(応神天皇)
は「品陀別命(ほんだわけのみこと)」

相殿神

姫大神(比売大神)
仲哀天皇(足仲彦命/たらしなかつひこのみこと)
神功皇后(息長帯姫命/おきながたらしひめのみこと)

史跡名勝天然記念物登録指定年月日

1932年(昭和7年)7月23日

祭事

お田植祭:2月節分の日
転害会(てがいえ):10月5日

手向山八幡宮の読み方

「手向山八幡宮」は「たむけやまはちまんぐう」と読みます。

また別名で「東大寺八幡宮(とうだいじはちまんぐう)」「鎮守八幡宮」「手向山神社」とも呼称します。

手向山八幡宮の名前の由来

手向山八幡宮の「手向山」の由来とは「奈良県奈良市と京都府木津川市の県境の東西に延びる丘陵」を古来、「手向山」と呼んでおり、その手向山の麓に鎮座した社であることに起因するものです。

さらに手向山の”手向”とは丘陵や山の頂(頂上)のことを意味します。もしくは人物や霊などにお供え物を供進することを言います。

現在ではあまり見る機会は少ないかも知れませんが、乗り物がない時代は峠や山頂に旅人の旅の安全を見守る「道祖神(どうそじん)」と呼ばれる神様がお祀りされていました。

この道祖神に対してお供え物をした旅人や地元の人が多かったことから、山頂を指す言葉として「手向け」という言葉も用いられていました。

手向山八幡宮の歴史・由来と「創建された理由」

創建は奈良時代!現在とはまったく別の場所に創建された!

手向山八幡宮の創建は古く、749年(天平勝宝元年/奈良時代)と伝わっており、手向山八幡宮が創建された理由については以下のような理由が述べられています。

大仏造立の最中、予想外に材料となる金が調達できず、工事は予定通りなかなか進みませんでした。

そんな状況があり、聖武天皇が大仏建立を諦めようとしていた時、宇佐八幡の神が枕元に立ちこう告げたといいます。

「金は必ず入手することができるでしょう。そして大仏建立は成ります。」

この話を聞いて飛び起きた聖武天皇は、これは霊夢(れいむ/お告げ)であることを悟り、急ぎ、九州・福岡の位置する「宇佐八幡宮」からご分神を東大寺へ勧請(招く)するように勅令を出します。

この後、宇佐八幡宮から東大寺へ宇佐八幡の神が移されることになりますが、東大寺近くまで来たとき、宇佐八幡の神を転害門から迎え入れて盛大な催しを執り行ったようです。

その後、宇佐八幡の神を祀るために社(やしろ)を造営することになりますが、このときに造られた社こそが現在の手向山八幡宮の起源となります。

ただし、創建当初の手向山八幡宮は749年(天平勝宝元年)12月27日に、まずは「平城宮の梨腹宮(なしはらのみや)」に殿舎が用意され、そこでお祀りされました。これは国家鎮護の仏である「盧舎那仏(大仏さん)」の守護神としてです。

翌年、750年(天平勝宝2年)には、九州福岡から奈良までの輸送に使用された神輿が、東大寺大仏殿内部に祀られることになります。

しかしその後すぐに大仏殿・中門前の鏡池から東南の畔(かつての東塔院の付近)に社殿が築かれて、平城宮から遷座されることになります。

梨原宮とは?梨原宮の場所はどこ??

749年(天平勝宝元年)12月18日、かつて平城京の南に存在したとされる梨原宮において神殿が造営され、ここで八幡神が東大寺および平城京の鎮守としてお祀りされることになります。

御神体は同年12月27日に、天皇が乗るような高貴な色を示す紫色の輿に載せられ、宇佐八幡の禰宜尼・大神杜女(おおみわもりめ)の先導により東大寺へ向かい転害門をくぐり抜けることになります。

当時の梨原宮には広大な薬園が広がっていたとされており、正式な場所は現代に至っても不明とされていますが、一説では現在の奈良市役所付近に位置する「平城京左京三条二坊宮跡庭園」に存在していたと目されています。

ちなみに現在の大和郡山市に位置する薬園八幡神社もこのとき、梨原宮に鎮座していた八幡神を勧請して創建されたと伝えられています。すなわち、手向山八幡宮とは兄弟にような間柄の深い縁で結ばれた神社といえます。

鎌倉時代に全焼!

1180年(治承4年/鎌倉時代)12月28日、平重衡(たいらのしげひら)による南都焼討の兵火によって、東大寺の伽藍もろともこの手向山八幡宮も焼失しています。

その後、1188年(文治4年)に東大寺大勧進職であった僧侶・重源上人(ちょうげんしょうにん)によって再建されています。

しかし1237年(嘉禎3年)に栄西(ようさい)に次いで東大寺勧進職となった、臨済宗の僧侶「退耕行勇(たいこうぎょうゆう)」によって手向山八幡宮の遷宮が提案され、1250年(建長2年)に鎌倉幕府第5代執権「北条時頼」によって、現在の地である手向山麓に移す形で再建されています。これが現在見ることのできる手向山八幡宮の姿になります。

江戸時代にも焼失!

1642年(元禄4年)11月27日、現在の油坂商店街付近の「西之坂」から火事が発生し、この火事の類焼により、ふたたび焼失しています。

この時、不幸が幸いしてか、大仏殿は室町時代の戦火によって焼失していたので、大仏殿には火の粉が及びませんでした。

その後、1691年(元禄4年)に公慶上人によって大仏殿が再建され、その時に同時に再建されています。

昭和時代

この手向山八幡宮は1932年(昭和7年)に国の史跡名勝天然記念物の指定を受けています。

なお、東大寺における国の史跡名勝天然記念物の範囲とは、東大寺旧境内となる「南大門、西大門跡、知足院、手向山八幡宮から若草山中腹」までの範囲が史跡の登録指定の範囲となります。

従って、正倉院やその北側は史跡名勝天然記念物の範囲には含まれていないことになります。

手向山八幡宮の主祭神「八幡神」

現在の手向山八幡宮の主祭神は「応神天皇・姫大神・仲哀天皇・神功皇后(仁徳天皇)」ですが、創建当初は別の神様(半分神様・半分仏様)が祀られていました。

その半神半仏というのが、なんと!現在、東大寺・勧進所「八幡殿」で祭祀されている「国宝・僧形八幡神坐像」になります。

僧形八幡神坐像が「半神半仏」といわれる理由とは、僧侶(仏門)の格好した神様だからです。

このような姿の像は「権現(ごんげ)」や「本地垂迹/ほんじすいじゃく)」と呼称し、実体をもたない神様を仏教の「仏像」と習合させて「神様&仏様」として崇めることです。フゅ〜じょん!ポタラっきょ

しかし、明治時代初頭に明治政府によって神仏分離令が発令され、神仏の区分けが付けられましたが、その際、僧形八幡神坐像は東大寺勧進所の「八幡殿」に遷されることになります。

同時にこの法律の発令によって日本本来の古神道の姿が復興されたとも言えます。

国宝・僧形八幡神坐像に関しての詳細は当サイトの以下↓の別ページにてご紹介しております。

手向山八幡宮のその他の御祭神

摂社祭神

仁徳天皇(大鷦鷯命/おほさざきのみこと)”おほ”?…オホっ
武内宿禰(たけうつすくね)
玉垂命(たまだれのみこと)
住吉三柱神(すみよしみはしらのかみ)
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)

末社祭神

応神天皇由縁(牛飼い)
瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)
素戔嗚尊(すさのおのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
白山比売神(しらやまひめのかみ)
蛭子神(ひるこのかみ)
豊玉姫・玉依姫(とよたま・たまより)




手向山八幡宮の境内案内図(境内全体図)

手向山八幡宮にはハッキリ言って境内という境内はないという見方もできます。

これは実際に当神社まで訪れれば分かることですが、キッチリと境内が位置付けられているわけではなく、常に開放的になっていますので通り抜けができます。

たとえば春日大社本殿から春日大社バス駐車場前の祈祷殿の脇道を東大寺方面へ進むと、若草山の登山口が見えてきて、その向こうに手向山八幡宮の鳥居が見えてきます。この鳥居を若草山・春日大社方面の鳥居とします。

その鳥居をくぐって境内を進むと、やがて右手に拝殿と本殿が見えてきますが、これを横目にさらに進むと今度は東大寺側の鳥居が見えてきます。この鳥居の目の前には東大寺・三月堂(法華堂)の堂舎があります。

さらに拝殿の前には楼門がありますが、これも開放されていますので通り抜けができるわけです。つまり3方向から通り抜けができるので常に開放的で境内という感じがしないのです。

ただし、注意点としては手向山八幡宮は閉門時間になれば境内の門は閉門されますので、通り抜けが一切できなくなります。ご注意を。オホ




手向山八幡宮の見どころ

絵馬

手向山八幡宮では、御祭神・応神天皇が寵愛したとされる「あつふさ」という名前の黒馬に国宝「唐鞍」を乗せたデザインの絵馬が授与されています。

国宝「唐鞍」とは手向山八幡宮に収蔵されている国宝のお宝になります。

馬が常用されていた奈良時代から戦国時代などでは、馬を神社へ奉納していました。

奉納時に「晴天を祈願するのであれば白馬を奉納する」「雨乞いを祈願するのであれば黒馬を奉納する」という風習がありました。

つまり過去の風習に倣い、現在でも生きている馬ではありませんが、馬になぞらえた絵馬を奉納するようになっています。

手向山八幡宮の絵馬は「立絵馬」と呼称し、絵馬が生きている馬のように直立させて立て置くことができます。

絵馬の値段

立絵馬:2500円
比翼雛土鈴:1500円
絵馬土鈴:1500円

奉納絵馬:1000円

土鈴(縁起物)

手向山八幡宮では、上記のような絵馬の他、「土人形」を縁起物として授与されています。十二干支を中身をくり抜いて土鈴にした「土人形」や、鳩ポッポをモチーフとした「鳩笛」もあります。

  • 十二干支土人形(土鈴):値段600円
  • 鳩笛:値段800円

中でも特に手向山八幡宮の絵馬は有名ですので東大寺へ拝観された折には是非、この手向山八幡宮へも立ち寄ってみてください。

八幡宮オリジナル「向かい鳩グッズ(縁起物)」

手向山八幡宮のシンボルとも言える「向かい鳩」がデザインされたバッジや鏡、マグネットが境内社務所の受付で販売されています。

それぞれ、大小もしくは大中小のサイズ展開があります。

  • 値段:大800円、小600円
バッジ

  • 値段:大500円、中400円、小300円

 

マグネット

  • 値段:300円

菅公腰掛石

菅公腰掛石」とは「かんこうこしかけいし」と読み、「菅公」とは学問の神様として有名な「菅原道真公」のことです。

菅原道真公は898年(昌泰元年)10月に朱雀院(宇多上皇)の付き添いで、この手向山八幡宮に紅葉狩りを兼ねて参詣されています。

この時に菅原道真公が腰を下ろして座ったと伝わる石です。

この時、手向山八幡宮の紅葉の素晴らしさに百人一首にも数えられるほどの名句を詠んでいます。

このたびは、幣もとりあへず手向山、紅葉の錦、神のまにまに

これを現代風に翻訳するとどのような意味合いになるかお分かりになりますか?

「まにまに」がクセものですね。頑張れば流行りそうな言葉です。

「明日、まにまに?」「おぉ、まにまに、まにまに。」「まにぃ?」「まっ、まにか?!」

・・と、このように”まにまに”だけで1日の会話が成り立ちそうな勢いです。成り立つかぃ

こホんっ!

ちなみにこの句を現代風に訳すると次のようになります。

『この度は天皇のお供という大役を担い、急な旅じゃった..ふぉっふぉっじゃから土地神様に捧げる幣(ぬさ)さえ用意できなかったわぃ..ふぉっふぉっ、ふぅぉぉう!
じゃけどもこの美しい山々の紅葉を変わりに奉納しますけぇ、どうかお気の済むまま受け取りなってくんしぇ。シぇ

・・など言った意味合いになるそうです。

なお、「まにまに」とは「思うままに」などいうような意味合いがあります。

ちなみにこの菅公の腰掛石に関しての伝説として、なんでも鎌倉時代末期から南北朝時代(室町時代)の有名な刀工「尻懸派(しっかけ)」の名前の由来は、当時、「尻掛石」とも呼ばれたこの菅公の腰掛石に因んだものだとされるようです。

実際に尻懸派はこの手向山八幡宮付近に工房を持っていたと伝えられています。

手向山八幡宮の御朱印

手向山八幡宮でも御朱印を授与されています。詳細は以下のページをご参照ください。

手向山八幡宮のお守り

手向山八幡宮でもオリジナルのお守りを授与されています。詳細は以下のページをご参照ください。

手向山八幡宮の御朱印帳

手向山八幡宮でも御朱印帳を授与されています。詳細は以下のページをご参照ください。

手向山八幡宮の紅葉

  • 手向山八幡宮の紅葉の見頃:11月中旬〜下旬

手向山八幡宮の境内には、山モミジやカエデを筆頭とした紅葉(モミジ)が群生しており、秋になれば君の去り際のラストスマイルのように儚げで思わず抱き寄せてキスしたくなるほどの美しい紅葉をみせてくれます。

なお、手向山八幡宮の境内にはモミジ以外にもイチョウの木の色づきも目することができるので、増して、君への恋に即落ちしちゃうことになります。

手向山八幡宮周辺のモミジの色付きが11月初旬ぐらいから始まりますので、3色の紅葉を見ようと思えば11月初旬から11月中旬に訪れると良いでしょう。

ただし、紅葉の色づき具合はその年の気候・気温によって異なります。たとえば、紅葉が始まるのは昼の温度と夜の温度に差があることが条件で、昼の温度は最低10度以上は必要になります。

境内建造物一覧

御本殿

御本殿の御祭神

主祭神

応神天皇(品陀別命/ほんだわけのみこと)※中央殿

相殿神

姫大神(比売大神)
仲哀天皇(足仲彦命/たらしなかつひこのみこと)
神功皇后(息長帯姫命/おきながたらしひめのみこと)

拝殿

拝殿は舞台になっていることから、手向山八幡宮オリジナルの伝統舞楽が舞われたり、神事が執り行われたりします。その他、県や地元団体、サークル主催のイベント行事でも使用されます。

イベント行事として有名どころでは、毎年5月〜6月に開催される「ムジークフェストなら」のジャズライヴ会場として使用されます。

大黒殿

手向山八幡宮の三月堂(法華堂)側の鳥居付近には休憩所があります。その休憩所の中には、なんと!大黒さん(大黒天)が祀られています。

クソほど近づけば分かりますが、叶緒にクソほど鈴が付けられています。これだけのクソ量の鈴があれが鈴音もクソほど迫力満点となり、つまりは大黒さんのクソほど霊験あらたかなご利益がクソほど得られるということでしょうか。クソクソクソ

⬆クソほどの量の鈴が付いた叶緒

なお、東大寺にも大黒天、毘沙門天が祀られている堂舎がいくつかあります。

例をあげれば、法華堂の裏側には「大黒天」、二月堂・食堂の裏側には「毘沙門天」、二月堂龍美堂の内部には「大黒天(大黒さん)」が祀られています。

ご興味のある方はぜひ、巡ってみてください。

このような七福神が祀られていることから、七福神信仰のようなものがかつて存在した名残かもしれません。

宝庫【重要文化財】

奈良時代の創建の頃に造営された高床式の倉庫です。正倉院と同じ校倉造の建造物になります。奈良時代の創建ということで国の重要文化財の指定を受けていますが、よく見れば東大寺・法華堂の経庫と類似しています。

法華堂の経庫は、すぐ近くにありますので興味のある方は見比べてみても良いですね。校倉造を間近で見学してみたい方は是非!

神門(楼門)

手向山八幡宮の出入口ともなる一重・楼門になります。

左右には廻廊が連接されており、手向山八幡宮の威容を示す顔とも言えます。

門をくぐると左側に社務所(授与所)があり、その向こうに本殿と拝殿がみえています。

住吉社・本殿【重要文化財】

  • 御祭神:住吉三柱神

「住吉三柱神」とは、住吉大社(大阪)に鎮座される住吉大神のことです。三柱とは以下のような名前の神様ですが、記紀伝承において(日本書紀と古事記)若干、三柱の神の名前が異なっています。

日本書紀
  1. 底筒男命(そこつつのおのみこと)
  2. 中筒男命(なかつつのおのみこと)
  3. 表筒男命(うわつつのおのみこと)
古事記
  1. 底筒之男神
  2. 中筒之男神
  3. 上筒之男神

実は手向山八幡宮には重要文化財の指定を受けている宝物や殿舎が結構あります。

東大寺に注目そそがれ、目を向けられることはあまりありませんが、是非!手向山八幡宮も参拝に訪れてみてください。

その重要文化財の指定を受けている殿舎の1つが住吉社・本殿になります。

正面からは観音開きの扉が3つ据えられていることから、3柱が相殿で祀られていることが想像できます。正面の装飾の無い蟇股が古式であることや、屋根の茅葺のコケが歴史を感じさせます。

若宮神社

  • 御祭神:大鷦鷯命(仁徳天皇)

境内の南側に位置する神社です。手向山八幡宮の境内ではもっとも大きい殿舎となり、本殿の他に拝殿まであります。

若宮神社とは、「若い宮」と読み、通例では御本殿で祭祀されている御祭神の御子神(=若い)などを祭祀している神社になります。

一般的に八幡神とは「誉田別命(ほんだわけのみこと)」つまり「応神天皇」のことを指し、その御子神である仁徳天皇(大鷦鷯尊)を祀った神社であることから若宮神社の名前が付されています。

若宮神社とは、ここ手向山八幡宮だけに存在する特別な社ではなく、日本全国の至る地域に存在する社となります。

神楽所【県指定文化財】

神楽所には以下の2つの見どころがあります。

【その1】東照宮

あまり知られていませんが、なんと!東大寺の境内にも江戸時代には東照宮があったのです!東照宮とは徳川家康公を祀る神社であり、本総は栃木県にある日光東照宮になります。

東大寺・東照宮の場所は「東大寺・本坊の天皇殿」そのものが東照宮であったと云われております。

【その2】源頼光「鬼退治画」

さらに神楽所の内部、上記、東照宮の左隣には「源頼光」という平安時代の源氏の武将が鬼退治をする絵図が置かれています。

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明武神社・劔神社・八子神社・松童神社【末社】

御祭神

明武神社:豊玉姫・玉依姫
劔神社:素盞鳴命
八子神社:天照大御神
松童神社:応神天皇由縁の牛飼い童子

四柱が合祀された社殿となります。

明武神社、松童神社はおそらく八幡宮オリジナルの社。八子神社は東大寺やこの八幡宮と深い縁をもつ宇佐神宮の境内に見られます。劔神社は剣(神剣)が祀られた神社であり、日本各地にみられます。

明治時代初期に神仏分離などの影響もあり、八幡宮周辺の祠や神社が八幡宮へ合祀されたようです。

阪本神社・恵比寿神社

御祭神

阪本神社:大己貴命
恵比寿神社:蛭児神

四柱が合祀された社殿となります。

阪本神社は八幡宮オリジナルの要素が強い。恵比寿神社は日本全国にある神社です。恵比寿神は一般的には大国主大神の息子神である「事代主(ことしろのぬし)」で知られていますが、室町時代以降、蛭子の神が海に流されたとされる伝承から、釣竿を持つ恵比寿(事代主)と同一神とされる信仰が生まれています。蛭子と書いて”エビス”とも読めます。




【補足】「転害会」とは?「転害会の由来と起源」

冒頭で述べたように宇佐八幡の神を勧請した際、10月5日に転害門(佐保路門)から迎え入れています。

この時の光景は圧巻だったようで、聖武天皇の熱狂ぶりが分かる程、かなり盛大に催されたようです。

数え切れないほどの人が歩く行列が編成され、この行列の後に騎兵が20騎、騎馬10騎、さらに神輿が続くほどの盛況ぶりであったと伝わっています。

この盛大な祭典を「転害会(てがいえ)」と呼称し、別名で「手掻会(てがいえ)」とも呼称します。

現在でも、盛大では劣りますが、この時の行事は踏襲されており、例年10月5日に宇佐八幡の神を祝うため、東大寺および手向山八幡宮では転害会の法要が営まれています。

転害会の起源と「過去は10月5日ではなかった??」

東大寺の転害会の歴史は古く、大仏創建前から開始され1539年(天文8年/戦国時代)までは勅祭として位置づけられていた程の祭典です。

実はこの転害会は、1539年以前は例年9月3日または9月13日に執り行われていましたが、神仏分離令以降は、10月5日に定められ、「勅祭ではなく奈良の祭典」として現在に至っています。

毎年10月5日は、宇佐八幡の神が東大寺へも鎮座されたことを祈念して、東大寺と手向山八幡宮の双方で各々、転害会が開催されます。

東大寺の転害会

東大寺の転害会では、勧進所で法要が営まれた後、上述した僧形八幡神坐像が特別一般公開されます。

手向山八幡宮の転害会

手向山八幡宮の転害会では、まず、手向山八幡宮から神輿が出発します。

転害会の神輿のルート

「手向山八幡宮」→「東大寺大仏殿」→「正倉院」→「転害門(てがいもん)」へ到着。

渡御の所用時間
  • 約1時間

その後、転害門の壇上で祭典が催されます。

平安時代では「八幡宮祭」とも呼称されていたほどの祭典で、手向山八幡宮の祭典の中でも重要な祭典になります。

祭典の内容としては3基の神輿が転害門の壇上と門の真下の置かれ、門の西側の面には地元の有志たちによって奉納された大注連縄が飾りたてられます。

従来ほどの賑わいはありませんが、現在でも地元奈良の人々の間では欠かすことのできない行事の1つとして親しまれています。




手向山八幡宮のご利益

  • 旅行安全
  • 交通安全
  • 国家安泰
  • 一家安全・円満

手向山八幡宮へ参拝に来られた方は、是非!帰宅時、自宅に着くまでの交通安全も祈願してみてください。

手向山八幡宮の拝観所要時間

拝観所要時間:約30分(お守り御朱印授与時間は除く)

30分というのは境内にある石碑や摂末社などをすべて巡った場合の時間です。御本殿のみの参拝する場合は5分足らずで済みます。

手向山八幡宮の拝観料金と拝観可能時間(営業時間)・定休日

入場料金(拝観料金):無料

営業時間(参拝可能時間/社務所営業時間)

基本:8時~16時30分
9月:7:30~17:30
10月:7:30~17:00
11月:8:00~16:30

定休日:年中無休

こちらのページでご紹介する料金などは変更になっている場合がありますので、最新情報は公式ホームページなどでご確認ください。

手向山八幡宮へのお問い合わせ先

住所:奈良県奈良市雑司町434
電話番号:0742-23-4404
(電話受付時間は社務所の営業時間に等しい
FAX番号:0742-23-4410

手向山八幡宮の場所とアクセス(行き方)

手向山八幡宮は東大寺・中門から鏡池の前を通ってそのまま直進する途中に鳥居が見えてきますが、この鳥居は手向山八幡宮の一の鳥居になります。

鳥居をくぐると参道の両脇には群生する木々が見受けられます。ゆるやかな勾配をもつ参道をしばらく進むめば手向山八幡宮境内への入口となる朱色の楼門が見えてきます。

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