奈良県・東大寺南大門の金剛力士像「歴史・大きさ(高さ)・作者(作った人)」(写真・画像付き)

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奈良県・東大寺南大門の金剛力士像「歴史・大きさ(高さ)・作者(作った人)」(写真・画像付き)

東大寺・南大門には以下のような「2つの金剛力士像(仁王像)」が安置されています。

東大寺・南大門「金剛力士像(仁王像)」【国宝】

口を開けた「阿行(あぎょう)像」

口を開けた「阿行(あぎょう)像」

口を閉じた「吽行(うんぎょう)像」

口を閉じた「吽行(うんぎょう)像」

造立年

752年(天平勝平4年)※奈良時代

再建年

1203年(建仁3年)※鎌倉時代
1991年(平成3年)※大規模解体修理

大きさ(像高)

各・約8.4m

重さ

各・約6.67t

造像方法

寄木造り

材質

ヒノキ

国宝登録指定年月日

1952年(昭和27年)3月29日

製作者(大仏師)※再建時

阿形像:運慶、快慶(伝)
吽形像:定覚、湛慶(伝)

安置場所

東大寺・南大門

東大寺・南大門「金剛力士像」の読み方

東大寺の境内には、難しい漢字の表記で読みにくい名前の仏像や堂舎がありますが、「金剛力士像」は「こんごうりきしぞう」と読みます。

そもそも・・金剛力士像って何?

金剛力士像とは「仁王像(におうぞう)」とも呼ばれます。この像 臭うぞぅ

「仁王像」という呼び方は定かではありませんが、平安期あたりから生まれています。

金剛力士像の「金剛力士」とは、「金剛杵(こんごうしょ=硬いダイヤさえ砕ける武器)」を手にした仏教の守護神という意味で「金剛力士」の名前が付されています。

仁王(金剛力士)は、仏の知恵で煩悩を消し去る「金剛杵(こんごうしょ)」という武器を持った、仏教の守護神です。

この金剛杵はあらゆるものを打ち砕けるほど硬く、金剛力士はこれを使って仏敵も倒します。

金剛力士像の「阿形」「吽形」は、それぞれ世界の始まりと終わりを表しているとされます。

「阿」が始まりで「吽」が終わりです。

これは、仏教が生まれたインドの言葉であるサンスクリット語が「ア」という音で始まり「ン」という音で終わるためです。

余談ですが日本語の五十音も、このサンスクリット語が元になっています。

これらの仁王像は、何も東大寺だけに関わらず、主にこれら2つ像のペアが原則となっています。

例外もありますが、上半身裸で筋骨隆々、怒りの形相をした像として表されることがほとんどで、多くは寺院の守り神として、寺門の左右に置かれます。

「阿行像は宇宙の始まり」を、「吽行像は宇宙の終わり」を表すとも言われています。


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東大寺南大門の金剛力士像の「歴史・特徴・見どころ」

東大寺南大門の金剛力士像は日本最大の木彫像になります。

東大寺の創建時からこの南大門で安置されていたと伝わっていますが、残念ながら現在の仁王像は創建当初のものではありません。

創建当初の仁王像は962年(応和2年)に近畿地方を襲った大風によって1度転倒し、その後、すぐに修復されますが、1180年(治承4年)の平重衡による南都焼討により、南大門もろとも仁王像も全焼しています。

この南都焼討では、東大寺の壮大な伽藍が焼け野原状態になったほどの、悲惨な惨状だったと伝えられています。

つまり、現在の仁王像は正式には後の1203年(建仁3年/鎌倉時代)に造立された仁王像となります。

この仁王像は鎌倉造立の折、それぞれ3000前後の木材を繋ぎ、なんと!約69日で仕上げたと言います。

造像開始日が1203年(建仁3年)7月24日で、ここから僅か69日ということは10月の初旬には完成していたことになります。

僅か2ヶ月足らずで8.4mもの仁王像を完成させたということになります。恐ろしや。ヒぇ~

この大きさとスピードを可能にしたのは「寄木造り」という造像方法と分担作業でした。

制作には、運慶・快慶を始め、20人近い仏師が携わったとされています。

わずかに残る彩色から、当初は赤い肌に、朱色や緑、青の華やかな裳(下半身の服)、という色彩だったことがわかっています。

通常、金剛力士像は正面を向いていますが、東大寺南大門の2体は向かい合って立っています。

この金剛力士像は、一旦組み上げてから視線の角度などの微調整が行われていることがわかっており、これは像を間近に見上げた時の見え方に配慮した結果と考えられています。

運慶および慶派の職人芸

運慶の職人芸は凄まじいものがあり、現代においても真似ができる職人がいないとさえ、言われています。

例えば、仁王像の指をよく見ると、樹木の年輪を利用して指紋として表現しています。

また、足には隆々とした血管が浮き出いる様も見事に表現しています。

鎌倉時代なので、現代よりもあらゆる状況が逼迫していたハズです。例えば道具が挙げられます。

そんな状況の中、よくこれだけの巨大な像を造立できたなと関心せずにはいられません。

さらに一見すると何も感じませんが、幾つもの部材を組み合わせた像を直立させるためには、絶妙なバランスが必要になります。

ここでのバランスとは、簡単に倒壊しないようにその後、何年も先のことも考えてのバランスということです。

尚、現存する2体の仁王像は背面に設置された「懸木(かけぎ)」という「たたら製鉄」で鍛えられた金属でシッカリと固定されて簡単に倒壊しないように補強されています。ご安心を。オホ

東大寺・南大門の金剛力士像(仁王)は短足??

実はこの東大寺南大門の金剛力士像(仁王像)は「短足」であると囁かれています。

普段、私たちが仁王像を見るとき、おそらく見上げた格好になるのがほとんどではないでしょうか?

何せ、仁王さんは身長8mもあるわけですから。人間の大人に例えると約4人分といったところです。

実は南大門の仁王像、上半身が下半身よりも、極端に長く造られていることが明らかにされています。

つまり短足であると言うに事実ということになります。

これは仁王像を見る時、下から見上げる格好になることを計算に入れて、わざと上半身を長く設定しています。

上半身を長くすることで筋骨隆々とした上半身を多く見せることができ、より威容感漂う姿をアピールすることができるからです。

これも運慶および慶派の仏師たちの職人芸の成せる技といえます。

先人の知恵とは本当にスゴイ!チュッ

東大寺南大門の金剛力士像は特別?「大きさ(高さ)」「重さ」ってどれくらい?

東大寺南大門の金剛力士像は吽形と阿形で若干、大きさや重さが異なります。

大きさや重さが異なるのは、経年による用材の伸縮や造立したのが人間の手によるものだからです。

東大寺南大門「金剛力士像・阿形」の大きさ(高さ)・重さ

  • 大きさ(高さ):8.36m
  • 重さ:6.68t
東大寺南大門「金剛力士像・吽形」の大きさ(高さ)・重さ

  • 大きさ(高さ):8.38m
  • 重さ:6.67t

上述したように、「阿行像」「吽行像」とも、それぞれ3000もの部品を組み合わせた寄木造りで、国内最大の木彫像です。

上述では「阿行像」と「吽行像」が向かい合っていると伝えましたが、なんと!!実は立ち位置が通常の仁王像とは左右逆になっています。

吽行像は、右足の甲を反らせ、かかとのみが台座についているポーズが特徴的です。

鎌倉時代に流行っていた「玉眼」を用いていないという点でも、同時代のものとしては、少し変わった像となっています。

ちなみに、国宝に指定されている金剛力士像は、東大寺南大門、法華堂、興福寺の国宝館にある像の3組のみとなっています。

像の足や目まで比較して見たことはないかもしれませんが、同じ東大寺の三月堂、そして興福寺にも金剛力士像はありますから、ぜひ比較してみてください。

東大寺・南大門の金剛力士像は、「雨風や日差しにさらされてしまう寺院の門」に安置された仁王像としては、唯一、国宝指定を受けている像になります。

現在の東大寺南大門の金剛力士像は誰が作ったの?

子どもの頃、「東大寺南大門の金剛力士像は運慶、快慶の作です」と教わった人も多いかもしれません。

実はこの東大寺・南大門では、1988年から1991年に解体修理が行われています。

その際に新たな事実が発見され、現在までの常識がくつがえるような歴史的発見がなされています。

上述の昭和の解体修理の際に発見された新事実とは、かの有名な運慶は実は指揮官だったということがほぼ確実とされています。

この新事実は阿行像・吽行像を解体したときに、吽行像の中からなんと!「宝篋印陀羅尼(ほうぎょういんだらに)」という書物が発見されており、この書物の中に湛慶(たんけい)、定覚(じょうかく)とその他12名もの仏師の名前が記されていたようです。

この他、吽行像に付属していた物からはなんと!運慶の名前が発見されています。

吽形像から発見されたもの(※1989年(平成元年)の調査で発見)

「宝篋印陀羅尼」
「建仁三年八月八日」の墨書き

阿形像から発見されたもの※1991年の調査で発見

「建仁三年七月二十四日始之」の墨書き
「建仁三年八月七日 金剛力士立之」
「大仏師法眼運慶 安阿弥陀仏」の墨書き

..etc

これら仏師の名前が何を表すのかについては今もなお、解釈が分かれており、調査が続けられています。

1990年の「困難を極めた解体修理」

この東大寺・南大門の仁王像は鎌倉時代に造立されて以来、ずっとこの南大門で安置されていました。

その結果、雨風にさらされ、また鳩のフンにまみれ、その鳩のフンを食べに虫が寄り付き、挙句、シロアリまで棲みつくという悲惨な状態でした。

さらになんと!「あともう少しで倒壊の危機にあった」といいます。

そんなことから、1989年に解体修理(平成の大修理)が実施されることになります。

この解体修理は東大寺学園の旧跡地に作業場が設けられ、ここで修復作業が行われました。

解体修理が困難を極めた理由は仁王像が国宝級のお宝であり、傷がつけられないということと、もっともな困難となったのが「図面(設計図)がない」ことでした。

図面がないに加え、傷が付けれないとのことから、一時、解体修理を諦める声も出たようです。

それともう1つ困難なことがありました。

何だかお分かりになるでしょうか?

正解は、「修復費用」です。

1体の仁王像にいくらの修理費がかかっている想像がつきますでしょうか?

実はなんと!5億円もかかっています。

費用は国が90パーセントほど出資し、残りは東大寺や奈良県が出資しています。

仁王像の修理方法

修理方法は、現代では常識ともなっている「おが屑(おがくず)」を劣化した木の割れ目に入れ込み漆で固めるという方法です。

この「おが屑」も当時使用されていた同じ材木を使用しなければならないため、切り出した木材の場所を割り出す調査も行われました。

その結果、山口県周防産のヒノキだということが判明しますが、現在では周防にヒノキがなかったようです。そんなことから類似したヒノキ材が使用されています。

解体修理が終了したのが1990年(平成2年)。工期約1年という、まさに平成の大修理となっています。

この修理では、木材はもちろんのこと、各パーツを止める「鉄の金具」までもが、材料から製法まで忠実に再現して修復されています。

しかし1点だけ、この修理で修復されなかった部材があります。

ドコだかお分かりになりすか?

正解は足元の「台座」です。

この台座だけは、シロアリたちに食い尽くされ、修復不可能だったようです。

そこで、この時の解体修理を行った平成の仏師(職人)たちの手によって再び台座が作られました。

一応は当時の台座を想定して復元されていますが、この部材だけは平成の仏師たちの仕事です。

東大寺南大門へ訪れた際は、是非!足元にも注目してみてください。

「阿行像」と「吽行像」の2つの金剛力士像は、似ているが、実は、作者が違う??

この2体の金剛力士像は、一見すると同じ作風に見えるのですが、微妙に作風が異なり、それ故に運慶、快慶がそれぞれの指揮をとったのだろうと考えられてきました。

更なる研究の新見解が出るのかどうかは注目したいところです。

ちなみにこの運慶、快慶らのグループは「慶派(けいは)」と呼ばれています。

慶派は奈良仏師の流れを汲む一派で、奈良仏師の始祖は「定朝(じょうちょう)」が起源と伝えられています。

定朝は、日本における仏像造立の改革者であり、「寄木造り」という造立方法を考案した人物です。

寄木造りが編み出されるまでの造立方法は、「一木造り(いちぼくづくり)」と呼称される造立方法が主流でした。

一木造りは、言葉の通り1本の木を彫って造像する方法です。

一木造りには2つの例えがあります。

  1. 1つは上述したように「1本の木から削り取る方法」、
  2. もう1つは「像の身体の基本的な部分には1つの材を用いて彫り出し、残りの細かな部分は別木を用いる方法」

です。

しかし時代を経るにつれて一木造りは用いられなくなり、寄木造りが主流になっていきます。

寄木造りの最大のメリットとは完成するまでのスピードが格段にあがるという所です。

それと部材を最後に組み合わせるので、運ぶのも容易く、失敗してもその部品だけ再度、作れば済むので効率が格段に上がります。

また一材から切り出さないので、この仁王像のような「より巨大な仏像」を造ることが可能になります。

ちなみにこの南大門の仁王像も、鎌倉期の再建の折、現在の南大門で組み上げられています。

 

鎌倉時代にはこのような新しいスタイルが武士の文化に受け入れられ一世を風靡しました。

尚、慶派仏師の技法は、現代までも脈々と子孫を通して受け継がれており、現代でも仏師として仏像の修理などに携わっています。

おわりに・・

いかがでしたか?

誰でも知っている東大寺南大門の金剛力士像ですが、もう少しだけ詳しくなったら、次回見に行くのも楽しみになりますね!

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