【重要文化財】東大寺・中門の歴史(由来)・建築様式(特徴)・大きさ・作った人・見どころを‥‥‥知りたぃ?

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奈良 東大寺・中門【重要文化財】

創建年

751年(天平勝宝3年/奈良時代)

再建年

1713年(正徳3年/江戸中期)※上棟式
1716年(亨保元年)※中門完成

1719年(享保4年)※二天の仏像安置

大きさ

横幅:約10メートル

建築様式(造り)

楼門造り
五間三戸

屋根の造り

入母屋造
本瓦葺

安置されている仏像

毘沙門天立像
持国天立像

特別保護建造物指定年月日(後の重文)

1898年(明治31年)12月

重要文化財登録指定年月日

1900年(明治33年)4月7日

発願者

聖武天皇

東大寺・中門の読み方

東大寺の境内には難しい漢字の表記で読みにくい名前の堂舎や仏像がありますが、中門は「ちゅうもん」と読みます。中門を注文

「中門」とは?

「中門」とは、寺院の伽藍(がらん)配置において、南大門の1つ奥、近藤くんから見れば手前の・・あ間違い!金堂!!の南側に設けられる門です。

主に中門には金堂を取り巻く形で金堂の前方に置かれて廻廊が連接され、金堂を守護する意味合いの強い門となります。

ちょうど聖武天皇が東大寺を造営した頃は、伽藍において南大門より中門が重要視されていた時代であり、この頃の中門は入母屋造屋根と重層を持ち、豪壮感と威容を漂わせた門構えとなっています。

天平時代中期以降は寺院の顔として伽藍の一番外側の門である「南大門」が重要視されるようになり、以降、さらに時代を経る中で南大門は「仁王門」や「三門(山門)」という名前に変わっていきます。

東大寺・中門の歴史・由来

初代の東大寺中門は751年(天平勝宝3年/奈良時代)に聖武天皇により創建されています。

1713年(正徳3年/江戸中期)4月11日には、棟梁・堀内員長、同元・右衛門満正を中心としたメンバーにより、この中門の上棟式が執り行われています。

1716年(亨保元年/江戸中期)9月に連接する東西廻廊と共に完成を迎え、1719年(享保4年)1月6日には、二天(毘沙門天立像・持国天立像)が安置され、開眼供養が執り行われています。

二天像を造立した仏師は、奈良仏師と同じ定朝の一派でもある京都仏師「山本順慶」とその一門が造立した立像となり、1719年(享保4年)1月6日に開眼供養が執り行われています。

1898年(明治31年)12月には、この中門と大仏殿、廻廊が特別保護建造物の指定を受けています。

なお、国宝・南大門の仁王像の裏側に現在、安置されいる「2体の狛犬像(石獅子像)」はかつてこの中門に安置されていたものです。大仏殿の戦いが勃発した1567年(永禄10年)までには現在の南大門に移動されたものと考えられています。

「2体の狛犬像(石獅子像)」についての詳細は以下の別ページにてご紹介しています。

東大寺・中門の建築様式(造り)

東大寺中門は、楼門(ろうもん)造りになります。ただし、創建当初の中門は「二重門(にじゅうもん)でした。

楼門とは2階部分に屋根がなく、高欄(こうらん/=手すり)だけが周囲を取り巻く門となり、南大門のように2階部分に屋根がある門を二重門と言いますが、南大門は厳密は2階部分がなく、2階部分の屋根は裳階(もこし)屋根になります。

総体的な組物は初層、2層目ともに出組で組まれ、中備には和様建築の典型となる間斗束が据えられており、これは南大門や大仏殿とは異なる造りになります。

初層に設けられた間口は5つ、両端の間口には四天王像のうち「兜跋毘沙門天立像」と「持国天立像」が安置され、中央3つの間口が出入口にあてられています。

ただし、現在は中央の間口3つには木柵が配置されており、参拝者および関係者ですら通行できなくなっています。

中門の内側へ行く方法

この中門の内側へ行くためには、大仏殿の受付窓口で有料の入堂券を購入する必要があります。入堂券は、この中門を向かい見て左部に連接される廻廊の端になります。

⬆大仏殿への入口

大仏殿にて拝観を終えた帰りは、再び中門に戻ってくることになりますが、帰りの出口は向かい見て右部に連接される廻廊の端となります。

創建当初の大仏殿の伽藍には中門の姿が!

東大寺大仏殿の内部には創建当初の大仏殿の伽藍の模型が置かれていますが、この模型を見れば中門が大仏殿の前にまるで守護するかのようにそびえ立っている様子が見れます。

創建当初の中門は現在とは異なり、入母屋造りの二重門となります。二重門とは各層に屋根が据えられた門のことであり、楼門とは上層の屋根上のみに屋根が取り付けられた門になります。

その左右には廻廊が連接された豪壮感あふれる門となります。

東大寺縁起絵図からみる中門

画像引用先:奈良国立博物館

鎌倉時代に制作された「東大寺縁起絵図(絵巻)」には、大仏殿の南側に中門の姿がハッキリと描かれていますが、鎌倉時代には屋根が1つしかありません。

これは時代を経る過程で伽藍における門の重要の度合いが中門から→南大門へ移り変わっていることを示します。




中門の仏像

「兜跋毘沙門天」

中門の毘沙門天は、そんじょそこらに安置されている毘沙門天像とは異なり、なんとぉぅ!ウイグル高昌区(こうしょうく)の「トルファン」で造立された仏像の特徴を持つことから、単なる毘沙門天立像ではなく、「兜跋」が付されています。

「兜跋」とは「とばつ」と読み、これはかつてのウイグル/トルファンの古称であり、「西域兜跋国」のことを指すと考えられています。

兜跋毘沙門天像はこの東大寺中門だけに存在する仏像ではなく、日本でもいくつか存在します。

兜跋毘沙門天像が現存する寺院一覧

  • 長垂寺(福岡市)
  • 教王護国寺(東寺/京都)
  • 鞍馬寺(京都)
  • 成島毘沙門堂(岩手県花巻市)※日本最大の兜跋毘沙門天像
  • 藤里毘沙門堂(岩手県)
  • 立花毘沙門堂(岩手県)

兜跋毘沙門天像の特徴

頭部の特徴

ド頭には煙突状の縦長の宝冠をかぶっています。

胸部の特徴

金鎖甲(きんさこう)と呼ばれる鎖で編んだ「鎖かたびら」のような鎧を着用しています。

左手

左手には宝塔を持っています。

右手

右手に戟(げき)と呼ばれる槍のようなものを持っています。

足元

なんと!足で仏教の護法善神「十二天」の”一天”である「地天(じてん)」と呼ばれる大地の女神や、「十羅刹女(じゅうにらせつにょ)」のうちの二鬼である「尼藍婆(にらんば)」「毘藍婆(びらんば)」を踏んでいます。

「十二天」は平安時代前期に中国を経て日本へもたらされた仏です。

「十羅刹女」とは、法華経に登場する10柱の鬼神のことです。もとは鬼でしたが、法華経に帰依することで成仏できると信じ、法華経に帰依してからは法華経を守護する鬼神となっています。

「持国天立像」

持国天は四天王のうち、須弥山の東の方角を守護する仏ということもあり、堂内では東側、須弥壇の上においては東南の方角に安置されることが多いです。

「剣」や「鉾(ほこ)」といった武器を持物として持っていることがほとんどです。また、八部鬼神という眷属(けんぞく)のうち「乾闥婆(けんだつば)」と「毘舎遮(びしゃーちゃ)」と呼ばれる二鬼神を従えています。

「中門堂」と「中門」は別!

東大寺にはかつて「中門堂」という堂舎が存在しましたが、同じ”中門”が付くことから中門に関係した堂舎か、もしくは中門の近くに存在した堂舎なのか?などと、中門と関連付けてしまいそうになりますが、実際は中門とは関係がありません。

東大寺中門堂とは、平安時代中期に十一面観音菩薩像を安置するために建造された堂舎であり、ちょうど現在の指図堂のあたりに存在したようです。

しかし1567年(永禄10年/室町時代)に起こった、だんご3兄弟と松永弾・・あ〜間違いっ!、三好三兄弟!!と松永弾正との間に勃発した、大仏殿の戦いの類焼によって焼失しています

以後、再建されることはなく、現在に至ります。

指図堂と中門の場所と位置関係

東大寺中門の場所(地図)

東大寺中門は大仏殿の真ん前の門です。前方には「鏡池」と呼称される池があります。

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