【重要文化財】東大寺 三月堂(法華堂)「経庫」の歴史(由来)と建築様式(特徴)や大きさ・作った人・見どころを‥‥‥知りたぃ❓

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奈良 東大寺・三月堂(法華堂)「経庫」【重要文化財】

創建年

不明
推定:平安時代前期

建築様式(造り)

校倉造り
寄棟造り

屋根の造り

本瓦葺

大きさ

桁行三間(約6メートル)
梁間二間(約4メートル)
高さ:約4メートル

重要文化財指定年月日

1906年4月14日

国宝指定年月日

1953年3月31日

発願者(作った人物)

不明

「経庫」の読み方

東大寺境内には難しい漢字の羅列で読みにくい仏像や堂舎がありますが、経庫は「きょうこちゃん」と読み・・おっと、「きょうこ」!!と読みます。

三月堂(法華堂)「経庫」の役割り

三月堂のきょうこちゃんは一言で、あ、あれ?あ!(またか)「経庫」!!は一言でいえば仏教の経典を収納しておくための「蔵」、すなわち「倉庫」です。シツコイ

平安後期から鎌倉時代には「米倉」として使用されていたと考えられており、この事実は建物の中から「米の出し入れの留書」や、ネズミを恨めしく描いた「戯画(ぎが)」が描かれていることに起因したものです。

ただし、現在に至っては東大寺で受戒(僧侶になる)するために執り行われる「堅義(りゅうぎ)※仏教においての質疑応答を繰り返す問答。」の際の試験官が使用する巨大な「台(論議台)」が保管されているとのことです。

⬆️論議台(写真は興福寺・中金堂のもの)




三月堂(法華堂)「経庫」の歴史

かつては東大寺・地蔵院の倉庫だった?!

この三月堂(法華堂)の経庫はかつては東大寺の塔頭寺院である「地蔵院(じぞういん」の倉庫であったと伝えられています。

東大寺・地蔵院の場所(地図)

現在の北林院と正観院の間。

ただし、地蔵院の倉庫でありながら、なんと!現在の正倉院宝庫が並ぶ位置からおよそ西方約150メートルの場所に建っていたと考えられています。

それを1696年(元禄9年/江戸時代)に当地へ移築したとのことです。

ちなみにこの地蔵院には同様の校倉(倉庫)がもう1つ現存し、そのもう1つの校倉は1687年(貞享4年)に現在の東大寺・勧進所へ移築され、経庫として利用されています。

創建年は奈良時代ではなく平安時代前期?!

創建年は不明とされていますが、およそ平安時代後期の間に造営されたと考えられており、これらの事実は正倉院を彷彿させる古式とも言えるその建築様式からも汲み取ることができます。

ただ、東大寺境内には法華堂の経庫と似たような倉庫が「手向山八幡宮に1つ」、「東大寺・本坊に1つ」、「東大寺・勧進所に1つ」それとこの法華堂にありますが、この法華堂の経庫だけが平安前期と見られているということは他の3つの校倉は奈良時代に建築されたと見られていることから、それよりも後の時代に4つの校倉を模して造営された様子がうかがえます。

鎌倉時代に大修理が行われていた事実が判明!

後述の昭和に行われた解体修理の折、構造材の一部に鎌倉時代の木材であることが明らかにされ、鎌倉時代に大修理が行われていた事実が明らかにされています。鎌倉時代の大修理では、屋根を支えるため構造材が部分的に補強されたり取り替えられていたようです。

江戸時代にも修理が行われていた!

1731年(享保16年/江戸時代)には軒を切り詰めて棟を高くし、屋根裏に空間が造られています。

平安時代中期以降、社寺の建造物に限定せず、あらゆる建造物にも例えれることですが、全般的に屋根裏に空間を持たせて妻を高く見せるような造りが流行しています。これは単に雨粒を軒下に落としやすくする目的や、妻に装飾を施して建造物に豪壮感を持たせるなどの目的があったとも考えらえています。

明治時代に東大寺所有の蔵になる!?

1828年(文政11年/江戸時代)には屋根の葺き替え工事が行われていますが、明治時代に入ると神仏分離令が発令された折、東大寺へ移管されています。

ちょっとこの経庫に接近する機会があれば扉の位置をよくご覧ください。

法華堂の倉庫でありながら、法華堂の方向に扉が設置されておらず、手向山八幡宮の方向に扉が据えらています。

この理由はこの倉庫が、いつの時代かは分かりませんが、かつて手向山八幡宮の所有であった時代があったからです。

実のところ、時代を経る過程において地蔵院の所有から→手向山八幡宮に移管されており、手向山八幡宮所有の頃は宝蔵として使用されていたようです。

この後、神様と仏様を分けて祀る法律(神仏分離令)が制定されたの機とし、1828年に東大寺(法華堂)に所有権が移ったことになります。

昭和時代の解体修理で思わぬ事実が新発見!

1963年(昭和38年)〜1964年(昭和39年)には解体修理が実施されており、この時、同時に創建当初ではなく、鎌倉期の姿に戻されています。

この工事では、経庫がかつて東向きで造営されていたことが明らかにされており、これはつまり、かつてこの経庫は現在の転害門あたりに創建され、その東側に位置する正倉院・正倉の方向を向いていたことになります。

これが事実であるならば、かつては正倉院に成り代わる倉庫として頻繁に利用された、重要な位置付けをもつ倉庫であった背景が浮き彫りになってきます。

えぇっ?!この法華堂の経庫から二月堂の絶対秘仏「十一面観音」が出てきた?!

この法華堂・経庫の歴史上、最大のスクープとなるのが、なんといっても・・・なんとぉぉぉぉぅ!!!ぅぉおおおお!!・・、絶対秘仏である二月堂の御本尊「十一面観音(大観音)」の光背(背中の輪っか)の一部が発見されたとすれば驚かれますでしょうか?

二月堂は1667年(寛文7年/江戸時代)に行われた修二会のお松明の際、失火によって全焼しています。このとき、東大寺の僧侶たちは御本尊を死に物狂いで救出し二月堂から持ち出して事なきをえています。

しかし、このあたりの詳細は二月堂が焼亡してしまったために資料が現存しておらず、不明とされてきましたが、1900年(明治33年)に東京大学教授の建築史学者「関野貞(せきのただし)」の調査によって、なんとぉぅぉぅ!この法華堂の経庫から二月堂の絶対秘仏「十一面観音(大観音)」の光背の一部が発見されています。

ちなみに現在、この光背は南大門前に位置する「東大寺ミュージアム」にて展示されています。

三月堂(法華堂)「経庫」の建築様式(造り)

三月堂の経庫は、手向山八幡宮の楼門の前に建っている「手向山八幡宮の宝庫」と同じ形をしています。屋根には鴟尾(しび/シャチホコのようなもの)が据えられ、シャチホコと同じような意味合いで火除けの願掛けがされているものと考えられます。

基本的な造りは校倉造りといって切り出した木材の両端に切り込みを入れて、上からさらに木材を乗せていき、井型状に組み上げていく「井楼造り(せいろうづくり)」とも呼ばれる様式になります。

屋根は鴟尾が両端に据えられていることからも分かるとおり、御霊を祀るお堂に見られるような「方形造り」ではなく、「寄棟造り(よせむねづくり)」になります。

屋根瓦は丸瓦と平瓦を交互に組み上げた本瓦葺きが用いられています。

このような校倉造りの倉庫というだけあって悠久の時を経てきた歴史的情景を垣間見ることができます。

ちなみに東大寺にはもう1つ世界的に有名な大きな校倉造りの蔵がありますがご存知ですか?

厳密には現在は東大寺の管理から離れていますが・・もぅお分かりですね?

その蔵に関しては以下のページで詳しくご紹介しています。

三月堂(法華堂)「経庫」の場所(地図)

三月堂(法華堂)の経庫は手向山八幡宮の宝庫の前方に位置します。2つ同じような校倉が手向山八幡宮の前に並んでいますが、法華堂寄りの校倉が法華堂(三月堂)の経庫です。

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