奈良 東大寺(開山堂)・良弁僧正坐像【国宝】

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奈良 東大寺(開山堂)・良弁僧正坐像【国宝】

奈良 東大寺・良弁僧正坐像【国宝】

像高

  • 92.4cm
素材・造り

  • 一木造(ヒノキ)
造立年

  • 1000年代初頭
国宝指定年月日

  • 1951年(昭和26年)6月9日
安置場所

  • 東大寺・開山堂

東大寺(開山堂)・良弁僧正坐像の読み方

東大寺の境内には難しい漢字の表記で読みにくい名前の堂舎や仏像がありますが、良弁僧正坐像は「ろうべんそうじょう ざぞう」と読みます。


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「良弁僧正」とは?

「良弁僧正」は、東大寺の初代別当(住職)です。

689年、相模国(現在の神奈川県)に生まれ、義淵(ぎえん)僧正のもとで修業したと言われています。

義淵僧正は聖武天皇に仕え、良弁の他、玄昉や行基など、後に活躍する弟子を多く育てた僧です。

723年に東大寺の前身である金鐘寺の住職となり、740年頃には大仏造立のため、3年間にわたる華厳経の研究会を主催しました。

753年の大仏開眼の後、東大寺の初代別当(初代住職)となります。

763年には、僧侶を統率し寺院を管理する役職の最高位である僧正となり、東大寺と平城京を中心とした日本の仏教界に大きく貢献しました。

良弁には、幼少期に鷲にさらわれて、義淵僧正に育てられたという伝承があります。

二月堂の前の良弁杉は、連れ去られた良弁が鷲にひっかけられた木だと伝えられています。

伝承されずに隠され続けた「早良親王の大仏殿建立の秘話」

上述したように良弁は、大仏造立・大仏殿の造営の中心となった人物です。

しかし、もう1人、良弁とともに大仏造立、大仏殿の造営に深く関わった人物がいます。

その人物というのが桓武天皇の皇子「早良親王(さわらしんのう)」です。

一般的に早良親王は桓武天皇の皇子して知られていますが、後に藤原氏の罠にかかり暗殺されています。

784年(延暦3年)桓武天皇は長岡京を建てますが、早良親王は死した後も祟りの力で疫病や天災をもたらし長岡京を滅ぼしたと恐れられています。

この早良親王が実は東大寺の僧侶であったことはあまり知られていません。

早良親王が東大寺の僧侶であった頃の名は「親王禅師」と呼び、大仏建立と大仏造営の指揮を良弁と共に執っています。

皇族の力でないとできないようなことも、皇族の地位をうまく利用することで大仏建立と大仏造営を中断することなく結果的に成功に導いた功労者です。

この当時は藤原氏の権力が強く、次期天皇である皇子が暗殺されることはザラにありました。

皇子が暗殺されると次の後継者が立てられます。

つまりここで早良親王は僧籍を離れて皇族に復帰することになり、藤原氏によって暗殺されることになります。

実は早良親王が僧侶の頃、良弁は早良親王の性格や器量を認めて自身の後継者として位置づけ、東大寺の行く末を親王禅師(早良親王)に託しています。

つまり、皇族に戻らなければ早良親王が東大寺の初代住職になっていたことになります。

しかしこの話はあまり知られていません。長く封じられていたためです。

これらの話が封じられた背景として早良親王が祟りの力によって長岡京を滅ぼしたと本気で思われていたことにあります。

実際に早良親王の祟りを鎮めるため、東大寺が早良親王を鎮めるための寺院として藤原氏によって位置づけられていた過去があります。

このように我々が知らない事実が東大寺には秘話として残っています。

良弁僧正坐像の特徴・見どころ

開山堂は、良弁僧正の命日の法要である「開山忌(良弁忌)」が行われる、12月16日のみ拝観できます。

拝観料は無料です。

開山忌は良弁が亡くなってから250年ほど経った1019年に始まり、約1000年続く行事です。

開山堂の建立もこの年で、像の制作も同時と考えられますが、作風から100年以上さかのぼった、800年代末とする説もあります。

当日は行列ができることもありますが、堂内が狭い分、像を間近に見ることができます。

像が右手に持つ如意という棒状の仏具は、良弁僧正が実際に使っていたものと伝えられています。

東大寺・開山堂の場所

東大寺・開山堂は三月堂の手前に位置します。大仏殿から徒歩約5分ほどです。

↑東大寺・開山堂の場所(地図)

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