奈良 東大寺(勧進所・八幡殿)「僧形八幡神坐像」【国宝】

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奈良 東大寺(勧進所・八幡殿)「僧形八幡神坐像」【国宝】

奈良 東大寺「勧進所・阿弥陀堂」・僧形八幡神坐像【国宝】

造立年

  • 1201年(建仁元年/鎌倉時代前期)
像高

  • 87.1cm
素材・造り

  • 寄木造(ヒノキ)
作者

  • 快慶
安置場所

  • 東大寺・勧進所「八幡殿

僧形八幡神坐像の読み方

東大寺の境内には難しい漢字の表記で読みにくい名前の仏像や堂舎がありますが「僧形八幡神坐像」は「そうぎょうはちまんじんざぞう」もしくは「そうぎょうやはたのかみ」と読みます。


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ところで・・「八幡神」とは?

八幡神の読み方は、「やはたのかみ/はちまんじん」と読みます。

八幡神とは400年代初頭頃の「応神天皇」と同一視される「神」のことで、「誉田別命(ほんだわけのみこと)」とも呼ばれます。

大分県の宇佐神宮を総本社とする「八幡宮」や「八幡神社」は、全国に7000社以上あるとされ、日本人にとって最も身近な神社の1つです。

東大寺にての大仏造立の最中であった749年に、宇佐神宮の神職が上京し「八幡神が、大仏の建造を援助するとお告げを下された」と伝えたという記録が残っており、東大寺にとっても縁のある神様です。

この八幡神を僧侶の姿に表したものが「僧形八幡神」です。

日本に仏教が伝わったのは538年、または552年と言われていますが、日本人はその頃、仏様と神様をあまり区別せずに信仰していました。

その後、仏教の繁栄に伴い、800年代頃から「日本の神様は、如来・菩薩・観音など様々な仏様が姿を変えたものである」とする考え方が広まりました。(=本地垂迹/ほんじすいじゃく)

つまり、神様も元々は仏様だったというわけです。こうして、僧形八幡神のような思想を形にしたような「半神半仏」が生まれています。

僧形八幡神像の歴史

本像は半神半仏という像容を持つため、明治初頭に政府により発せられた「神仏分離令」によって奈良市街を流れる「佐保川」へ捨てられたという言い伝えが地元には残されています。

しかしこれは事実ではなく、般若寺町に暮らす手向山八幡宮の神職一族である「植村氏」が、一時的に家宅にてお護りする形で奉安していたようです。

その後、どのような経緯で現在、本像が安置されている東大寺勧進所の八幡殿へ遷(うつ)されたのかは定かではありませんが、「東大寺寺禄沿革略記」という古書物によれば1893年(明治26年)10月頃に遷されたことになっています。

僧形八幡神像の「特徴・見どころ」

創建当初の僧形八幡神像は、平重衡による1180年の南都焼討により焼失。現在の本像は、1201年(建仁元年)12月27日、重源上人が八幡殿(手向山神社)の再建とともに作らせた像と伝えられています。

実はこの当時、重源上人は鳥羽離宮・勝光明院の宝蔵から僧形八幡神の絵画を貰い受けて東大寺へ奉安しようと考えていたようですが、当時、神護寺中興の祖とも言われる真言宗の僧「文覚(もんがく)」によって神護寺へ引き取られてしまい、記憶に残るかぎりの画像を彫像として再現しようとしたのがことの始まりになります。

画像から彫像を造立するためには並外れた技量が必要であり、そのことを察して当時、一斉を風靡した慶派の頂点に立つ仏師「快慶」に造立を依頼したものだと考えられています。

なお、後世で神護寺の画像と本像を照合したところ、なんと!シワの数や衣の波紋、ポージング、光背の形状などが見事に一致しており、本像が確かに神護寺の画像を模して造立されたことの証拠になっています。

この僧形八幡神像かつては現在の八幡殿(現在の手向山八幡宮)のご神体でしたが、明治元年に東大寺に遷(うつ)されています。

現在では東大寺・勧進所「八幡殿」にて、毎年10月5日のみ、特別に一般公開されています。

ちなみに本像が1201年に制作されたことが明らかにされている理由は、胎内に「1201年」と書かれた墨書銘や、本像の造立に協力したとみられる人々の銘が見つかっているからです。

本像に書かれた墨書銘
  • 願主:土御門天皇、後鳥羽院、七条女院殖子、東大寺別当弁堯(べんぎょう)、明恵上人、…etc
  • 造立者(製作者):小仏師28人、漆工3人、銅細工1人、…etc

ド頭部分からは謎の”五輪塔”が見つかった?!

他にも、頭部の内部からも「五輪塔」が発見されており、梵字で表された大日如来や阿弥陀三尊など墨書も見つかっているとのことです。

ちなみにこのような木製の五輪塔は鎌倉時代以降の仏像の胎内から多数、発見されており、慶派仏師の造立であると考えられています。

五輪塔は密教の本尊である大日如来を示し、阿弥陀仏は八幡神の本地仏とし、八幡神は大仏造立に協力した宇佐八幡をも意味することから、重源上人の思想がよく反映された仏像だとも云われます。

僧形八幡神像にはモデルとなった「絵」があった?!

ところで、この像にはモデルとなる絵があったことがわかっています。

1180年の平重衡による焼き討ちにあった東大寺を再建したことで知られる重源が、八幡宮を再建した際、神体として祀ろうとしていた絵でした。

しかし結局手に入れることができず、代わりとして快慶にこの像を彫らせたとのことです。

左右2つの木材を繋ぎ合わせて完成させた像で、膝や腰、手先などに別の木材を充てています。

像の中には製作に携わった仏師の記録が残されており、この像の制作には快慶の他28人の仏師や、3人の漆工などが携わったことが明らかにされています。

左手に持っていたはずの数珠はなくなっていますが、右手の「錫杖(しゃくじょう)」という棒や台座、光背は当初のものです。

朱色や群青の彩色も美しく残っており、袈裟の遠山文様(とおやまもんよう)と呼ばれる霞んだ山の模様も、しっかり確認できます。彩色は、かつて興福寺に存在した興福寺仏所に属した「有尊」という絵仏師が担当したとのことです。

東大寺・勧進所の特別一般公開について(御開帳)

東大寺・勧進所は、普段は一般公開されていませんが、毎年10月5日に執り行われる法要「転害会」に際、特別に一般公開されます。

転害会は手向山八幡宮の祭礼でもありますが、なんといっても本像が転害会の御本尊として礼拝の対象となりますので、このときは扉が開かれるというわけです。

この時に「八幡殿・僧形八幡神像」をはじめ、勧進所内の「公慶堂・公慶上人像」や「阿弥陀堂・五刧思惟阿弥陀如来像」も特別に一般公開されます。

「公慶堂・公慶上人像」のみ4月12日の転害会でも一般に特別公開されています。(2019年度より10月5日のみに変更)

遠方から東大寺へ訪れる際は、是非!特別開扉の日程合わせて訪れてみてください。

尚、法華堂(三月堂)も特別一般公開があります。法華堂の特別一般公開については当サイトの以下↓の別ページをご覧ください。

 東大寺 三月堂(法華堂)の「見どころ・拝観料金(入場料金)・見学所要時間・営業時間・アクセス(行き方)」

東大寺・勧進所へのアクセス(行き方)

東大寺・勧進所は東大寺大仏殿のから奈良駅・国道369号線方向へ歩いた先に位置します。

詳しくは勧進所の中に「八幡殿」「公慶堂」「阿弥陀堂」があります。

↑東大寺・勧進所(阿弥陀堂)の地図

東大寺大仏殿から徒歩で約3分から5分ほどの距離です。

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