奈良 東大寺「大仏殿(東大寺・金堂)」【国宝】
創建年
752年(天平勝宝4年)※奈良時代
再建年
1195年(建久6年)※鎌倉時代
1709年(宝永6年)※江戸時代
1806年(文化3年)※明治の大修理
1973年(昭和48年)※昭和時代
建築様式(造り)
木造軸組構法
一重寄棟造
上部裳階屋根付き
正面唐破風付き
(一部、鉄骨トラス組み)
屋根の造り
本瓦葺
銅板葺
大きさ(現在)
横幅:57.5m
奥行き:50.5m
高さ:49.1m
大きさ(創建時)
横幅:85.8m
奥行き:50.3m
高さ:37.5m
鴟尾の大きさ
高さ:3.3m
胴部分の長さ:2.5m
横幅:1.4m
重さ:1.8トン(1個)
重要文化財登録指定年月日
1898年(明治31年)12月28日
国宝登録指定年月日
1952年(昭和27年)3月29日
世界遺産登録年月日
1998年(平成10年)12月2日
発願者
聖武天皇(創建時)
重源上人(鎌倉再建時)
公慶上人(江戸期再建時)
ご存知ですか?東大寺は世界遺産にも登録されているお寺だと言うことを。
東大寺・大仏殿の別名
東大寺・金堂(とうだいじ こんどう)
東大寺・大仏殿の歴史
東大寺大仏殿は、大仏さんが鎮座している建物のことを言い、「世界最大級の木造建築」になります。
実は東大寺の大仏殿は、以下の2回に渡って火事で焼失しています。
2回目の焼失理由と焼失原因
- 南都焼き討ち(戦火の延焼)※平安時代
- 大仏殿の戦い(戦時の失火)※室町時代
以下ではさらに詳しく解説しています。
現在の東大寺・大仏殿は江戸時代に建てられたもの!
東大寺は2度に及んで焼失したために、現在の大仏殿に至るまでには以下のような歴史がありました。
- 奈良時代に創建される
- 平安時代に焼失
- 鎌倉時代に再建される
- 室町時代(戦国時代)に焼失・・
- 江戸時代に再建される
- 明治の大修理
- 昭和の大修理
- 現在に至る
したがって現在、我々が目にしている東大寺とは「江戸時代」に過去の姿を復原して建立(再建)された大仏殿ということになります。
なお、大仏殿内部の大仏さんの台座(蓮華座)や両腕、両足などは天平期(創建当初)のものであることが明らかにされています。
大仏さんの詳細については以下の別ページにてご紹介しています。
奈良時代
「大仏殿の誕生(創建)」
東大寺・大仏殿は747年に創建計画が成り、5年後の752年に完成を迎えています。(開眼供養)
創建に際しての発願者(作ろうと言った人物)は聖武天皇であり、造営工事の現場指揮を担当したのは僧侶の行基(ぎょうき)と伝わっています。
行基は聖武天皇により、745年(天平17年)に「大勧進(だいかんじん)」および「大仏建立工事の総指揮者」に任命されています。
大仏殿の作り方や作者については以下の別ページにてご紹介しています。
平安時代
1180年の「治承の兵火(南都焼討)」
「治承の兵火(南都焼討)」とは、1180年(治承4年)12月28日~1181年(治承5年)1月15日、当時、世の中の権力を欲しいままにしていた、平家(平氏)の当主・平清盛の命令により「東大寺」・「興福寺」などの寺社が焼き討ちされた事件のことです。
平治の乱に勝利した平清盛は、大和国(現在の奈良県)の支配権を得て、もともと東大寺や興福寺が持っていた土地や住民に対する様々な権限を一切無視し、権力を振るいました。
東大寺や興福寺はこれに強く反発し、それぞれ強い結びつきがあった皇室や摂関家の権威も借りながら、「僧兵」と呼ばれる組織の兵力を持って抵抗を続け、小競り合いは徐々にエスカレートしていきました。
そしてついに清盛は、それらの寺社勢力を叩き潰すために「奈良の都」と呼ばれた「南都」の寺院をことごとく焼討ちにしたのです。
1181年(治承4年/平安時代)1月15日(旧暦12月28日)、清盛は平重衡(たいら の しげひら)を総大将に任じて、南都(奈良)へ向かわせます。
この南都焼討は、ことの他、規模が大きかったようで、大仏殿や大仏のみならず、東大寺の他の伽藍、東大寺の隣の興福寺にも戦火の類焼が及んでいます。
この後、真言宗の僧侶「俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)」によって再建が成され、1190年10月19日(建久元年/鎌倉時代)に大仏殿上棟式を斎行、1195年3月12日(建久6年)には落慶法要が執り行われています。
俊乗坊重源(しゅんじょうぼう・ちょうげん)とは?
俊乗坊・重源とは、紀氏(きし)と呼ばれる、和歌で有名な「紀貫之(きのつらゆき)」の祖先にあたると言われている人物です。
紀氏は和歌山の豪族であり、当時では格の高い出自でありながら、重源はわずか12歳の若さで出家して、浄土宗開祖に「法然(ほうねん)」の弟子となっています。
その後は、法然のもとで一心に修行に励み、61歳の時に後白河法皇の庇護を受け、東大寺を再び建て直す許可を得ることに成功します。
そして、後に東大寺の再建の大勧進および総責任者に抜擢されています。
この時に、以前より交流のあった、中国・宋の技術者・陳和卿(ちんなけい)を呼び寄せて、力を合わせて東大寺の大仏殿、大仏を再建しました。
俊乗上人に関しては当サイトの以下↓の別ページにてご紹介しております。
重源上人は大仏再建に際して「東大寺別所」と呼ばれる日本国内に7つの拠点を造営しています。
- 東大寺播磨別所/播磨・浄土寺/浄土堂 ※兵庫県
- 東大寺周防別所/周防・阿弥陀寺 ※山口県
- 東大寺伊賀別所/新大仏寺 ※三重県
- 東大寺別所/東大寺浄土堂 ※東大寺境内(現在の俊乗堂の場所)
- 東大寺高野新別所/高野山円通寺 ※和歌山県
- 東大寺渡辺別所 ※大阪府北中部
- 東大寺備中別所 ※岡山県
【補足】鎌倉再建時の大仏殿の内部図
下図は重源上人が作成したとされる「大仏殿内部の指示書」になります。(1284年/弘安7年【重要文化財】)
画像引用先:https://ci.nii.ac.jp/(醍醐寺収蔵・大仏殿図【重要文化財】)
- 盧舎那仏(大仏さん)
- 金剛界堂
- 胎蔵界堂
- 如意輪観音
- 虚空蔵菩薩
- 東方天(持国天)※建久6年8月/運慶作
- 南方天(増長天)※建久6年8月/運慶作
- 西方天(広目天)※建久6年8月/運慶作
- 北方天(多聞天)※建久6年8月/運慶作
大仏殿内部の詳細については以下の別ページをご覧ください。
室町時代(戦国時代)
1567年の大仏殿の戦い
「大仏殿の戦い(永禄の兵火)」とは、1567年(永禄10年)4月18日から10月11日、およそ半年間もの間、続いた戦いのことです。
1567年(永禄10年/戦国時代)、時の将軍・13代足利義輝が忠臣であった「三好義継」、「三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)」、「松永久通(松永久秀の息子)」の手によって暗殺されます。(永禄の政変)
しかしこの後、畿内(大阪府)の覇権を狙って権力者となった上記、「三好家の三兄弟(三人衆)」と「松永弾正(久秀)」が内乱を繰り広げます。
この内乱は当初、京都、畿内(大阪府)から始まりましたが、松永弾正が多聞山城を築いたため、東大寺のある奈良県にまで戦が拡大し、同年5月18日、東大寺に布陣した松永弾正の兵が東大寺境内の穀物倉庫にて失火を起こしてしまい、その失火の延焼によって東大寺境内は焼失してしまいます。
ちなみにこの穀物倉は鎌倉期の東大寺再建で活躍した上記、重源上人が勧進活動を行った拠点となった場所でもあります。
この戦いによって大仏さんの頭は焼け落ちてしまい、この後、大仏さんは屋根なし首なしの状態で約140年以上、露座(ろざ)で雨風にさらされたまま放置されることになります。
約140年以上、露座は正式ではない!
一般的に約140年間、大仏さんは頭なし屋根なしの状態で雨風に晒されていたとされていますが、実は室町時代に簡易的に修理されており、頭が造立され、屋根となる仮堂までもが造営されています。
つまり、実際は約140年間ではなく、約70年間露座に晒されたというのが正式です。
この詳細については下記のページにてご紹介しています。
江戸時代
「公慶上人と徳川綱吉公による大仏殿および東大寺伽藍の再建」
140年後のある日、この危機を救う人物が登場します。その人物とは、東大寺の系列宗派となる南都六宗の内の1派「三論宗(さんろんしゅう)」に籍を置く、「公慶(こうけい)」という僧侶です。
公慶は1648年(慶安元年/江戸時代)にこの世に生を得て、13歳の時に東大寺大喜院に在籍する英慶(えいけい)に師事しています。
公慶は大仏さんを守る大仏殿がなくなり、大仏さんが野ざらしになっているのが我慢できなくなり、ついに1684年(貞亨元年)5月8日、江戸幕府に大仏殿再建を打診しますが、当時の幕府には資金がなく却下されます。
しかし「勧進活動(浄財を集める活動)は認める」という幕府公認の約束をとりつけ、後に勧進活動のために日本全国を巡ることになりますが・・、この勧進活動によって予想外のことが起こります。
驚くことになんと!公慶はこの勧進活動によって1万1200両(現在の紙幣価値で約10億円)という途方も無い金額を集めてしまいます。
この話を耳にした時の江戸幕府の将軍「徳川綱吉」とその母「桂昌院」は、驚きとともにいたく感激し、さっそく公慶を呼び寄せて幕府主導で大仏殿の再建を行うことを告げます。
その後、綱吉公は日本全国の大名に5万両を捻出するように触れを出し、さらに幕府からも5万両を出す命令を下します。すなわち合計10万両の予算で大仏殿が再建されることになるわけです。
ただし、これでも予算が足りないと幕府より打診があり、結局、公慶上人はこの後も勧進活動を継続することになります。なお、大仏殿および東大寺伽藍の造営工事は奈良奉行所の主導により行われています。
そして1709年(宝永6年)、夢にまで見た大仏殿・上棟式を知って安心しきったのか、公慶上人は江戸にて眠るようにして入定したと言います。まさに大仏殿再建のみに人生を捧げた生涯でした。
以上、現在みることのできる大仏殿の姿は、この公慶上人と徳川綱吉公の寄進によって再建された姿です。
明治時代の大仏殿
明治時代になると大仏殿の腐朽化が顕著となり、至る箇所に歪みが生じますが、もっとも顕著に腐朽化が見られたのは屋根です。大仏殿の屋根は3020トンもあるので、それを支える構造材にもいよいよ限界が生じはじめます。そこで満を持して執り行われたのが、大仏殿の明治の大修理です。
昭和時代の大仏殿
上記、明治の大修理のあと、昭和時代にも腐朽化のために大修理が執り行われいます。昭和の大修理では最新技術を用いた「素屋根」が造営されたのち、大修理が開始されています。
明治および昭和の大修理に関しては以下のページで詳しくご紹介しています。
えぇっ?!東大寺・大仏殿の奈良時代と現在の大仏殿の大きさ(サイズ)が違っていたって?!
実は創建当初(奈良時代)と現在の大仏殿とでは、以下のように大きさが少し異なっていることが明らかにされています。
創建時(奈良時代)の東大寺の大仏殿の大きさ
- 正面:88m/11間
- 奥行き:52m
- 高さ:47m
- 創建者:聖武天皇
- 指揮者:行基
再建時(鎌倉時代)の東大寺の大仏殿の大きさ
- 正面:86.1m/11間
- 奥行き:50.5m
- 高さ:46.3m
- 大勧進・指揮者:重源上人
※奈良時代とほぼ同じ
現在の東大寺(江戸時代再建)の大仏殿の大きさ
- 正面:57m/7間
- 奥行き:50.5m
- 高さ:49.1m
- 大勧進:公慶上人
- 指揮者:奈良奉行所
この比較を見れば、江戸時代に再建された現在の大仏殿の方が、奈良時代の大仏殿に比べてサイズが小さくなっており、幅だけ見ても今より30mほど大きい建物だということが分かります。
なお、重源上人による鎌倉時代の再建では、奈良時代の大仏殿をそのまま再現して再建されたのでサイズは同じです。
現在の大仏殿と奈良時代の大仏殿のサイズ(大きさ)が異なる理由
江戸期の再建でサイズが変更された!!
公慶上人による江戸期再建の時も、当初は奈良および鎌倉期の大仏殿(横幅11間)を復原する方向で話が進められていました。しかし、幕府側で見積もりを算出したところ、なんと!資金的に不可能との判断が出され「7間」であれば可能との結果が出されます。
それを聞いた公慶上人は、「縮まるのは仕方ない。しかし、せめて”9間”!!」という計画案を出しますが、この案も却下されます。しかし、この話を耳にした時の将軍・綱吉公も「縮めるのはいかん!」と身銭・白銀1万両を投じますが、結局これでも焼け石に水、最終的にやはり7間で着地することになります。
ちなみに現在の大仏殿の再建費用・・、いったいいくらかかっているかお分かりになりますか?
なっ、なんとぉぅっ!約12万両(現在の貨幣価値にして約120億円)という途方もない金額がかかっています。
知られていない事実!創建当時、実は大仏殿(東大寺)の完成までには、なんと!約7年もかかっていた?!
「大仏建立の詔」と「国分寺・総国分寺造営計画」はまったく別!
国分寺が出来た理由
724年(神亀元年)に大仏建立の命令を出した聖武天皇は晴れて即位しますが、729年(天平元年)には臣下の反乱が勃発し、737年(天平9年)には疫病(天然痘)が蔓延します。
さらに740年(天平12年)にも臣下の反乱が起こり、多くの身内を亡くしてしまいます。
自身の生命すら危ぶまれた状況から、ついに平城京を放棄して、現在の京都府木津川市加茂町に築かれた「恭仁京(くにきょう)」へ移り、新都を造営することになります。
そして翌741年(天平13年)の2月、新都にてこれ以上、災いが起こらずに身内や国民が苦しむことがないようにとの願いを込めて、「国分寺・国分尼寺建立の詔」を公布し日本全国に寺院の保護と建立を促します。
しかし、新都造営の最中、聖武天皇は再び遷都することになり、742年(天平14年)に現在の滋賀県甲賀群に位置する「紫香楽宮(しがらきのみや)」へ再び遷都することになります。
大仏が作られた理由
聖武天皇は、中国の奉先寺(ほうせんじ)にある大仏・盧遮那仏のこと、そして、河内国(現在の大阪府東部)に位置する「知識寺(ちしきじ)」に盧舎那仏が祀られていることを知ります。
そこで740年に知識寺に行幸し、大仏・盧遮那仏とその背景にある華厳経に出会い、いたく感銘を受けます。
紫香楽宮へ戻った聖武天皇は国分寺の創建だけではなく、宇宙規模の衆生(しゅじょう/生きとし生けるもの)を救う大仏・盧舎那仏の力をもってさらに世の中のすべてを救済できると考えます。
そして、743年(天平15年)10月15日に「大仏・盧舎那仏建立の詔」を発し、紫香楽の甲賀寺(こうがじ)にて、まず、大仏の木組みを作る儀式を行っています。
しかし、それから2年後の745年(天平17年)2月、紫香楽にて山火事が発生、さらに翌月には地震が発生し、ついにもとの平城京へ再び遷都することになります。
平城京に遷都した聖武天皇は、新たな大仏建立の地として平城京の東に位置する「金鍾山寺(きんしょうさんじ/金鍾寺)」を指定します。
ちなみに、後に東大寺の開山となる良弁僧正は、金鍾山寺の住職でした。
良弁僧正は聖武天皇に仕えた義淵僧正の弟子で、740年から3年間に渡って、華厳経の研究会を主催しています。
大仏さんが作られた理由に関して以下の別ページでご紹介しています。
そして、東大寺の大仏さんと大仏殿が誕生!
この時、金鍾山寺は国分寺(こくぶんじ/国が認定した寺院)でしたが、大仏建立の地と定められたことによって国分寺の最上格の寺院である「総国分寺」に格が跳ね上がり、”都(平城京)の東の大寺”ということで「東大寺」という名前に改められることになります。
そして再び、745年(天平17年)に大仏建立の工事が再開され、749年(天平勝宝元年)にようやく完成を迎えます。
すなわち、大仏建立の詔から再び工事が再開されて完成を迎えるまでに、約7年もかかっていることになります。
その後、大仏殿の造立が始まり、758年(天平宝字2年)に完成しています。
奈良の大仏の歴史や大きさなどについては、当サイトの以下のページ↓でご紹介しています。
東大寺の大仏さんの目ん玉に筆を入れにインドからわざわざ高僧が日本に来ていた?!
大仏が完成してから3年後の752年(天平勝宝4年)には、完成記念の法要「大仏開眼供養会」が行われました。
※正確には開眼供養会の時点では、大仏の細部の仕上げや光背の作成が終了していなかったと言われています。
この時に、開眼の筆を執ったのは、なんと!
はるばる遠方の国・インドの僧侶「菩提僊那(ぼだいせんな)」という人物だと言われています。
「開眼の筆」とは?
開眼の筆とは「開眼法要(かいげんほうよう)」の一種です。
開眼法要とは、仏像、仏画、仏壇、墓などの完成の際に、行なわれる法要のことを言います。
この場合の法要とは「大仏さんの眼を筆で描き込む」といったことになります。
その際、この筆に「開眼縷(かいげんる)」と呼ばれる200mもある細長い縄を複数の関係者らで持ち、縄を通して念(魂)を仏像へ送ります(入魂!)。
開眼法要では開眼の筆に巻き付けられた開眼縷を、聖武天皇や光明皇太后、孝謙天皇、文武百官、僧侶ら参集者が握りしめて大仏さんに魂を入れたそうです。
大仏殿の歴史(年表)
743年(天平17年)聖武天皇、紫香楽宮にて「大仏造立の詔」を出す
751年(天平勝宝3年)大仏殿創建される
752年(天平勝宝4年)大仏開眼供養が斎行される
754年(天平勝宝6年)大仏殿前に戒壇を築き鑑真を招聘して聖武天皇・孝謙天皇受戒される
756年(天平勝宝8年)聖武天皇崩御
757年(天平勝宝9年)僧侶約1500人が招聘され、聖武先帝の一周年忌が盛大に斎行される
760年(天平勝宇元年)光明天皇崩御
917年(延喜17年)12月1日、大仏殿の三面僧房「西室」より出火が発生。類焼にて講堂も焼失
935年(承平5年)講堂の落慶供養が執り行われる
962年(応和2年)大暴風雨により大仏殿の扉が損壊
986年(寛和2年)大仏殿上層部が修繕される
987年(永延元年)8月13日、大風で大仏殿背面の扉が損壊
1116年(永久4年)大仏殿の回廊が修理される
1180年(治承4年)平重衡の南都焼討により東大寺伽藍ほぼ全焼
1181年(治承5年)重源上人、大勧進に就任。大仏殿・大仏再建を計画する
1185年(文治元年)大仏開眼供養が斎行される
1187年(文治3年)9月、周防杣山にて大仏殿の棟木が伐採される
1190年(建久元年)大仏殿上棟式が執り行われる
1195年(建久6年)3月12日、大仏殿供養が斎行される
1337年(嘉禎3年)4月19日、講堂の上棟式が斎行される
1263年(弘長3年)8月25日、勅使し、大仏殿にて行基舎利供養が斎行される
1508年(永正5年)3月18日、講堂からの出火により三面僧房も焼失
1509年(永正6年)4月13日、後柏原天皇、講堂・三面僧房の再興を宣言される
1567年(永禄10年)10月10日、団子三兄・・あおぅ!三好三兄弟と松永弾正の大仏殿の戦いにより大仏殿炎上
1568年(永禄11年)3月27日、正親町天皇、大仏殿再建の宣下される
1572年(元亀3年)6月、織田信長、大仏殿再建のため、清玉上人(京都阿弥陀寺開基)に自国領を勧進させる
1610年(慶長15年)7月21日、大仏さん仮堂、大風により倒壊する
1610年(慶長15年)8月8日、かつて東大寺境内に存在した上生院が家康公へ大仏修理を請願し、中井大和守正次が幕府より派遣される
1684年(貞享元年)5月8日、公慶上人、大仏殿再興のため大勧進に就任する。日本全国へ勧進活動を開始。同月、塩屋弥左衛門により大仏蓮弁が修理される
1690年(元禄3年)8月15日、大仏さんの頭が完成。鋳物師は「広瀬行左衛門国重」※刻銘あり。
1691年(元禄4年)2月、大仏さんの修復完了
1692年(元禄5年)3月、大仏石座が完成、3月8日より1ヶ月間、大仏開眼供養が斎行される
1704年(宝永元年)6月12日、日向国(現在の宮崎県)の白鳥神社周辺の森林から大仏殿の虹梁に使用する赤松2本を伐採、輸送開始される
1705年(宝永2年)4月10日、大仏殿上棟式が斎行される、7月12日公慶上人が入滅
1708年(宝永6年)6月26日、大仏殿再建成る
1709年(宝永6年)3月21日〜4月8日まで大仏殿落慶供養が斎行される
1713年(正徳3年)4月25日、大仏殿中門上棟式が斎行される
1719年(享保4年)1月6日、大仏殿中門二天の開眼供養が斎行される
1806年(文化3年)7月、大仏殿、上層部の屋根が波打つ。角柱で補強
1882年(明治15年)10月、大仏殿修理が内務省・宮内省にて企画される
1898年(明治31年)12月、大仏殿および、中門、回廊ともに特別保護建造物の指定を受ける
1911年(明治44年)5月2日、大仏殿修理上棟式が斎行される
1915年(大正4年)4月、貞明皇后、大仏殿へ参拝される。5月2日〜8日まで大仏殿落慶供養が斎行される
1974年(昭和19年)6月、大仏殿、昭和の大修理が開始される
【補足】えぇっ?!東大寺には別名があった?!
実はこの大仏殿を含めた東大寺自体には、なんと!別の呼び名があったのです。
これはあまり知られていませんが、歴史が好きな方や神社やお寺がお好きな方なら知っているかもしれません。
その東大寺のもう1つの正式名称を「金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)」と呼称します。
この名前は、東大寺の建造を企画した「聖武天皇」が、後世の国の安寧を願って「国分寺(こくぶんじ)の詔」と言う、壮大な寺院群を造る計画をした際に誕生しています。
その「国分寺」は大きく次のような2つの種類に分けられます。
- 国分僧寺(こくぶんそうじ)
- 国分尼寺(こくぶんにじ)
これらの寺院には、実は法名と言う正式名称が付けられており、以下のように呼称します。
- 国分僧寺=「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」
- 国分尼寺=「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」
↑の説明を見て、勘の鋭い方であれば、「ピンっ!」と、来たハズです。
そうです。金光明四天王護国之寺とは、何も東大寺だけのことを言うのではないと言うことです。
すなわち、日本国内の「国分僧寺」であれば「金光明四天王護国之寺」と言う、別名を持っていると言うことになります。
これらの国分寺は日本国内に数十あり、東大寺はその中でも「総国分寺」として、国分寺の取りまとめの総本山のような位置づけになっています。
東大寺が「総国分寺」である理由は、次の通りです。
- 大仏建立の地であること
- その大仏さんが座しておられる寺院であること
- 平城京の鎮守として位置付けられたこと
大仏殿の見どころ
大仏殿の見どころについては以下の別ページを参照してください。
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