奈良県・東大寺の大仏殿の「由来・歴史・見どころ・仏像(画像付き)」でご説明!

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奈良県・東大寺の大仏殿の「由来・歴史・見どころ・仏像(画像付き)」でご説明!

知っていますか?

東大寺は世界遺産にも登録されているお寺だと言うことを。

さらに東大寺は正式な名前があると言うこともご存知でしょうか?

東大寺の大仏殿とは、大仏さんが鎮座している建物で「世界最大の木造建築」になります。

そして、東大寺大仏殿の正式名は「東大寺・金堂(とうだいじ こんどう)」といいます。

以下では、「大仏殿」こと「東大寺・金堂」の歴史や見どころをご紹介します!

奈良 東大寺・大仏殿(東大寺・金堂)【国宝】

東大寺 正式名 東大寺金堂

創建年

752年(天平勝宝4年)

再建年

1195年(建久6年)※鎌倉時代
1709年(宝永6年)※江戸時代
1806年(文化3年)※屋根が垂れ下がったために支柱を据える

建築様式(造り)

木造軸組構法
一重寄棟造
上部裳階屋根付き
正面唐破風付き
一部、鉄骨トラス組み

屋根の造り

本瓦葺
銅板葺

大きさ(現在)

横幅:57.5m
奥行き:50.5m
高さ:49.1m

大きさ(創建時)

横幅:85.8m
奥行き:50.3m
高さ:37.5m

重要文化財登録指定年月日

1898年(明治31年)12月28日

国宝登録指定年月日

1952年(昭和27年)3月29日

発願者

聖武天皇(創建時)
公慶上人(江戸期再建時)

東大寺・大仏殿の歴史

実は東大寺の大仏殿は、以下の2回に渡って火事で灰になっています。

2回目の焼失理由と焼失原因

  1. 南都焼き討ち(放火の延焼)
  2. 大仏殿の戦い(失火)

えぇっ?!東大寺は過去に2度も火事で燃え尽きて灰になっていた??

以下ではさらに詳しく解説しています。

現在の東大寺・大仏殿は江戸時代に建てられたもの!

東大寺は、これらの二度に及んで焼失したために、現在の大仏殿は以下のようなものになります。

  1. 奈良時代に創建されて・・
  2. 鎌倉時代に焼失して再建されて・・
  3. そして江戸時代に再び焼失して再建された。

したがって現在、我々が目にしている東大寺とは「江戸時代」に過去の姿を模して建立(再建)された大仏殿ということになります。

なお、大仏殿内部の大仏さんの台座や両腕、両足などは天平期(創建当初)のものであることが明らかにされています。

大仏さんの詳細については以下の別ページにてご紹介しています。

奈良県・東大寺の大仏の「大きさ(高さ・重さ)・名前・歴史・特徴」(画像・写真付き)

奈良時代「大仏殿の誕生(創建)」

東大寺・大仏殿は747年に創建計画が成り、5年後の752年に完成を迎えています。(開眼供養)

創建に際しての発願者(作ろうと言った人物)は聖武天皇であり、造営工事の現場指揮を担当したのは僧侶の行基(ぎょうき)と伝わっています。

行基は聖武天皇により、745年(天平17年)に、「大勧進(だいかんじん)」および「大仏建立工事の総指揮者」に任命されています。

鎌倉時代「南都焼討」

1180年の「治承の兵火(南都焼討)」

「治承の兵火(南都焼討)」とは、1180年(治承4年)12月28日~1181年(治承5年)1月15日、当時、世の中の権力を欲しいままにしていた、平家(平氏)の当主・平清盛の命令により「東大寺」・「興福寺」などの寺社が焼き討ちされた事件のことです。

平治の乱に勝利した平清盛は、大和国(現在の奈良県)の支配権を得て、もともと東大寺や興福寺が持っていた土地や住民に対する様々な権限を一切無視し、権力を振るいました。

東大寺や興福寺はこれに強く反発し、それぞれ強い結びつきがあった皇室や摂関家の権威も借りながら、「僧兵」と呼ばれる組織の兵力を持って抵抗を続け、小競り合いは徐々にエスカレートしていきました。

そしてついに清盛は、それらの寺社勢力を叩き潰すために「奈良の都」と呼ばれた「南都」の寺院をことごとく焼討ちにしたのです。

1181年(治承4年/鎌倉時代)1月15日(旧暦12月28日)、清盛は平重衡(たいら の しげひら)を総大将に任じて、南都(奈良)へ向かわせます。

この南都焼討は、ことの他、規模が大きかったようで、大仏殿や大仏のみならず、東大寺の他の伽藍、東大寺の隣の興福寺にも戦火の類焼が及んでいます。

この後、1190年(建久元年/鎌倉時代)に真言宗の僧侶「俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)」によって再建が成され、1195年(建久6年)には落慶法要が執り行われています。

室町時代(戦国時代)「大仏殿の戦い」

1567年の大仏殿の戦い

「大仏殿の戦い(永禄の兵火)」とは、1567年(永禄10年)4月18日から10月11日、おおよそ半年間もの間、続いた戦いのことです。

1567年(永禄10年/戦国時代)、時の将軍・13代足利義輝が、忠臣であった「三好義継」、「三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)」、「松永久通(松永久秀の息子)」の手によって暗殺されます。(永禄の政変)

しかしこの後、畿内(大阪府)の覇権を狙って権力者となった「三好家の三兄弟」と「松永弾正(久秀)」が内乱を繰り広げます。

この内乱は当初、京都、畿内(大阪府)から始まり、東大寺のある奈良県にまで及び、その際、東大寺に布陣した松永弾正の兵が東大寺境内の穀物倉庫で失火を起こしてしまい、その失火の延焼によって東大寺境内は焼失してしまいます。

この戦いによって大仏さんの頭は焼け落ちてしまい、この後、大仏さんは屋根なし首なしの状態で約140年以上、露座(ろざ)で雨風にさらされたまま放置されることになります。

江戸時代「公慶上人と徳川綱吉公による伽藍再建」

140年後のある日、この危機を救う人物が登場します。その人物とは、東大寺の系列の宗派となる南都六宗の内の1派「三論宗(さんろんしゅう)」に籍を置く、「公慶(こうけい)」という僧侶です。

公慶は1648年(慶安元年/江戸時代)にこの世に生を得て、13歳の時に東大寺大喜院に在籍する英慶(えいけい)に師事しています。

この後、上述したように、大仏殿が焼失に至ります。

公慶は大仏さんを守る大仏殿がなくなり、大仏さんが吹きさらしになっているのが我慢できなくなります。

そしてついに江戸幕府に修繕と再建を打診しますが、当時の幕府には資金がなく、再建は望めませんでした。

しかし勧進活動は認めるという幕府公認の約束をとりつけ、後に勧進活動のために日本全国を巡っています。

この勧進活動によってなんと!現在の紙幣価値で約10億円もの金額を集め、大仏殿の再建を成功に導いています。

後にこの話を聞いた、時の江戸幕府の将軍「徳川綱吉」とその母「桂昌院」が、たいへん感激し、公慶に資金提供を行い、大仏さんの修繕までもが成し遂げられました。

現在みることのできる大仏殿は、この公慶と徳川綱吉の寄進によって再建された時の姿です。

 

えぇっ?!東大寺・大仏殿の奈良時代と現在の大仏殿の大きさ(サイズ)が違っていたって?!

実はこの大仏殿は創建当初(奈良時代)と現在の大仏殿とでは、次のように大きさが少し異なっていることが明らかにされています。

創建時(奈良時代)の東大寺の大仏殿の大きさ

  • 正面11間(約88メートル)
  • 奥行き約52m
  • 高さ47m
現在の東大寺(江戸時代再建)の大仏殿の大きさ

  • 正面9間(約57m)
  • 奥行き約50m
  • 高さ48m

つまり、再建された現在の東大寺の方が過去の東大寺に比べて、サイズが小さいものとなっています。

えぇっ?!東大寺・大仏殿の奈良時代と現在の大仏殿の大きさ(サイズ)が違っていたって?!

鎌倉時代の大仏殿(奈良時代創建の大仏殿)は、一目見るだけで、現在の江戸期再建の大仏殿と比較して横幅が広いことが分かります。

幅だけ見ても今より30mほど大きい建物だったのです。

これは大変、驚きです!

現在の大仏殿と奈良時代の大仏殿のサイズ(大きさ)が異なる理由

現在の大仏殿は1708年(宝永2年/江戸時代)に徳川綱吉公の寄進によって再建されたものですが、実はこの再建で建設資金が足りなくなるという事態が発生してしまいます。

その結果、やむなく横幅を約30メートルほど削ることで再建計画が進行されることになっています。

それもそのハズで、現在の大仏殿の再建費用にいったいいくらかかっているかお分かりになりますか?

なっ、なんとぉぅっ!10万両(現在の貨幣価値にして約100億円)という途方もない金額がかかっています。

 

知られていない事実!創建当時、実は大仏殿(東大寺)の完成までには、なんと!約7年もかかっていた?!

「大仏建立の詔」と「国分寺・総国分寺造営計画」はまったく別!

国分寺が出来た理由

724年(神亀元年)に大仏建立の命令を出した聖武天皇は晴れて即位しますが、729年(天平元年)には臣下の反乱が勃発し、737年(天平9年)には疫病(天然痘)が蔓延します。

さらに740年(天平12年)にも臣下の反乱が起こり、多くの身内を亡くしてしまいます。

自身の生命すら危ぶまれた状況から、ついに平城京を放棄して、現在の京都府木津川市加茂町に築かれた「恭仁京(くにきょう)」へ移り、新都を造営することになります。

そして翌741年(天平13年)の2月、新都にて、これ以上、災いが起こらずに身内や国民が苦しむことがないようにとの願いを込めて、「国分寺・国分尼寺建立の詔」が公布し日本全国に寺院の保護と建立を促します。

しかし、新都造営の最中、聖武天皇は再び遷都することになり、742年(天平14年)に現在の滋賀県甲賀群に位置する「紫香楽宮(しがらきのみや)」へ再び遷都することになります。

大仏が作られた理由

聖武天皇は、中国の奉先寺(ほうせんじ)にある大仏・盧遮那仏のこと、そして、河内国(現在の大阪府東部)に位置する「知識寺(ちしきじ)」に盧舎那仏が祀られていることを知ります。

そこで740年に知識寺に行幸し、大仏・盧遮那仏とその背景にある華厳経に出会い、いたく感銘を受けます。

紫香楽宮へ戻った聖武天皇は国分寺の創建だけではなく、宇宙規模の衆生(しゅじょう/生きとし生けるもの)を救う大仏・盧舎那仏の力をもってさらに世の中のすべてを救済できると考えます。

そして、743年(天平15年)10月15日に「大仏・盧舎那仏建立の詔」を発し、紫香楽の甲賀寺(こうがじ)にて、まず、大仏の木組みを作る儀式を行っています。

しかし、それから2年後の745年(天平17年)2月、紫香楽にて山火事が発生、さらに翌月には地震が発生し、ついにもとの平城京へ再び遷都することになります。

平城京に遷都した聖武天皇は、新たな大仏建立の地として平城京の東に位置する「金鍾山寺(きんしょうさんじ/金鍾寺」を指定します。

ちなみに、後に東大寺の開山となる良弁僧正は、金鍾山寺の住職でした。

聖武天皇に仕えた義淵僧正の弟子で、740年から3年間に渡って、華厳経の研究会を主催しています。

そして、東大寺の大仏さんと大仏殿が誕生!

この時、金鍾山寺は国分寺(こくぶんじ/国が認定した寺院)でしたが、大仏建立の地と定められたことによって国分寺の最上格の寺院である「総国分寺」に格が跳ね上がり、”都(平城京)の東の大寺”ということで「東大寺」という名前に改められることになります。

そして再び、745年(天平17年)に大仏建立の工事が再開され、749年(天平勝宝元年)にようやく完成を迎えます。

すなわち、大仏建立の詔から再び工事が再開されて完成を迎えるまでに、約7年もかかっていることになります。

その後、大仏殿の造立が始まり、758年(天平宝字2年)に完成しています。

 

奈良の大仏の歴史や大きさなどについては、当サイトの以下のページ↓でご紹介しています。

奈良県・東大寺の大仏の「大きさ(高さ・重さ)・名前・歴史・特徴」(画像・写真付き)


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東大寺の大仏様の目ん玉に筆を入れにインドからわざわざ高層が日本に来ていた?!

大仏が完成してから3年後の752年(天平勝宝4年)には、完成記念の法要「大仏開眼供養会」が行われました。
※正確には、開眼供養会の時点では、大仏の細部の仕上げや光背の作成が終了していなかったと言われています。

この時に、開眼の筆を執ったのは、なんと!

はるばる遠方の国・インドの僧の「菩提僊那(ぼだいせんな)」という人物だと言われています。

「開眼の筆」とは?

開眼の筆とは「開眼法要(かいげんほうよう)」の一種です。

開眼法要とは、仏像、仏画、仏壇、墓などの完成の際に、行なわれる法要のことを言います。
開眼法要とは、仏像、仏画、仏壇、墓などの完成の際に、行なわれる法要のことを言います。この場合の法要とは、「大仏の眼を筆で描き込む」といったこととなります。この場合の法要とは、「大仏さんの眼を筆で描き込む」といったこととなります。
その際、この筆に細ながい縄を巻きつけて、縄を複数の関係者らで持ちながら、縄を通して念(魂)を仏像へ送ります(入魂!)。

そして、この開眼法要で、開眼の筆に巻き付けられた200mにも及ぶ縄を、聖武天皇や光明皇太后、孝謙天皇、文武百官、僧侶ら参集者が握りしめて大仏さんに魂を入れたそうです。

 

東大寺・大仏殿の見どころ

金銅八角燈籠

大仏殿の出入り口手前の階段下には「金銅八角燈籠」という国宝指定を受けている八角形を形をした燈籠があります。

この燈籠は752年(天平勝宝4年)に執り行われた大仏の開眼法要と同時期に造立された燈籠になります。

この燈籠が国宝指定を受ける理由とは、素材が金属だったので幾多の火災においての火の影響をそれほど受けることなく、天平期の創建当初の姿をそっくり今に伝えているからです。

燈籠の火袋(ひぶくろ)の部分の面には「音声菩薩(おんじょうぼさつ)」の透かし彫りが見られます。

大仏殿に訪れたら、いち早く大仏を観たいがために、この燈籠を通りすぎてしまう方がほとんどです。

しかし、国宝指定を受けているほどの燈籠になりますので、是非!東大寺・大仏殿へ訪れた際は、この金銅八角燈籠も忘れずに、目が腫れ上がるほどギロっと目ん玉が飛び出して拾うほど凝視してみてください!

尚、金銅八角燈籠に関しては当サイトの以下↓の別ページにてご紹介しております。

奈良 東大寺「大仏殿・金銅八角燈籠」【国宝】

観相窓の開扉

観相窓」とは「かんそうまど」と読み、これは大仏殿の出入り口の真上にある窓のことです。

この窓の扉を開くと、大仏さんの顔を真正面で眺めることができるというものです。

観相窓を除いた瞬間、いきなり大仏さんの顔がアップで飛び出てくるので、思わず「”ぅおわっ!”」・・などといったドス黒く小汚い奇声を腹の底からあげてしまうことになります。

 

ぅおわっ!!

・・。

普段は、この窓は閉じられているのですが、1年の中で定められた日だけ開扉されることがあります。

この扉は創建当初から設置されたものではなく、江戸時代に執り行われた公慶上人の再建の折に、設置された窓になります。

これは大仏殿に入って大仏さんを見るとどうしても見上げてしまうため、真正面から大仏さんのお顔を拝観できるようにと、公慶上人が参拝者への配慮として据え付けた窓になります。

観相窓の開扉日

  • お正月(1月1日/元日)
  • お盆(特別夜間拝観日/8月13日~14日・万灯供養会/8月15日)

毎年、8月13日と14日には特別夜間拝観が行われ、拝観料無料で大仏殿に入ることができます。

そして「盂蘭盆(うらぼん)」の最終日となる「8月15日」の夜には、東大寺・大仏殿において「万灯供養会(まんとうくようえ)」の法要が営まれます。

大仏殿の観相窓が開けられるのは、通常、この3日間の19時~21時(15日は22時まで)と1月1日の0時~8時のみとなっています。

唐破風にも注目!

観相窓のすぐ上には、曲線が特徴的な「唐破風」が付いています。
この唐破風は初代、および鎌倉時代に再建された大仏殿には無く、江戸時代の再建で初めて付けられたものです。

鎌倉時代に再建された大仏殿の模型。唐破風はないが、観相窓のようなものはある。

なお、東大寺大仏殿は外から見ると二階建てのように見えるのですが、下層の屋根は「裳階(もこし)」または「雨打(ゆた)」と呼ばれる、いわば飾りであり、実際は単層の建物となっています。

盧遮那仏蓮弁線刻図【国宝】

  • 造立年:756年(天平勝宝9年/奈良時代)
  • 高さ(台座から):303㎝
  • 材質:銅製

大仏殿に入ると盧遮那仏(大仏さん)が目の前に鎮座されていますが、その大仏さんの前に「三角形の大きな銅板」が置かれています。

この銅板こそが国宝指定の「盧遮那仏蓮弁線刻図」であり、756年(天平勝宝8年/奈良時代)に銅板が完成し、757年に鏨(タガネ)で線刻されたものです。

このどデカイ銅板が28枚ありますが、このうち14枚ほどが奈良時代に制作されたものとして現存しています。

盧遮那仏(大仏さん)脇侍「虚空蔵菩薩」【重要文化財】

大仏殿のご本尊「盧遮那仏(大仏さん)」の両脇には、脇侍(きょうじ・わきじ)が安置されています。

大仏さんを向かい見て左側に安置されているのは、「虚空蔵菩薩」です。読み方は「こくうぞうぼさつ」と読みます。

  • 造立年:1752年(宝暦2年/江戸時代)
  • 造像方法:寄木造
  • 像高:722.5cm
  • 発願者(寄進者):大和国国分寺「法華寺」「坂田寺」の尼僧(※寺伝)

この仏様は無限の智慧を持った仏様で、智慧の象徴となる仏様になります。

この仏様は密教の側面が強い仏様で、祈りを捧げることで智慧の一部を授かることができる修法があります。

真言密教の創始者である大師・空海は、この修法を編み出し、虚空蔵菩薩から智慧の一部を授けていただくことに成功しています。

この修法を「虚空蔵救聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」と呼称します。

盧遮那仏(大仏さん)脇侍「如意輪観音」【重要文化財】

虚空蔵菩薩に引き続き、大仏さんを向かいて見て右脇に安置されているのが「如意輪観音」で、「にょいりんかんのん」と読みます。

  • 造立年:1738年(元文3年/江戸時代)
  • 造像方法:寄木造
  • 像高:710cm
  • 発願者(寄進者):大和国国分寺「法華寺」「坂田寺」の尼僧(※寺伝)

この仏様は少し風変わりな仏様で、一般の庶民が祈りを捧げると財宝を与え、僧侶が祈りを捧げると福徳を授けてくださるそうです。

奈良時代にもっとも信仰が寄せられた仏様で、現世ご利益として厄災消除、健康長寿のご利益を授けていただけます。

蓮に座して造像されている時は、大抵、両足の裏側を合わして座し、右手を頬に当てています。

これは救済の方法を考えている姿を示していると云われています。

大仏さん(盧舎那仏)の脇侍に「如意輪観音像」と「虚空蔵菩薩像」が置かれる例は珍しい!

通例であれば大仏さん(盧舎那仏)の脇侍には「文殊菩薩」と「普賢菩薩」が配されるのですが、この東大寺大仏殿の大仏さんの脇侍に限っては、「如意輪観音像」と「虚空蔵菩薩像」が脇侍として安置されています。

この謎は現在に至っても解明されることなく、東大寺の七不思議にも数えられるようです。

盧遮那仏(大仏さん)脇侍「広目天立像」

大仏さんにはまだ脇侍がおり、この広目天立像は、大仏さんの左奥に安置されている仏像になります。

通常は四天王として4仏で安置されている像です。

広目天は千里眼を駆使して世の中のあらゆることを見定め、悪には降魔の鉄槌を、祈りを捧げて救いを請う者には衆生へ救いの手を差し伸べます。

特徴としては、右手に「筆」、左手に「巻物」を持っています。

盧遮那仏(大仏さん)脇侍「多聞天立像」

多聞天も広目天と同じく四天王の1尊です。

多聞天は単独で祀られることも多く、単独で祀られる時は名前が変わり「毘沙門天(びしゃもんてん)」と呼称します。毘沙門天は「七福神」で有名です。

特徴としては、右手に宝塔を持ち、左手に金綱棒というダイヤモンド並みに硬い棒をもっています。

四天王の中ではもっとも力が強く、崇拝されることの多い人気の仏様です。

有名な戦国武将、上杉謙信が崇敬を寄せていたことでも有名です。ウフ

ところで、この広目天と多聞天は、増長天、持国天と共に四天王像として安置される予定だったようですが、増長天と持国天は未完成のまま、頭部のみ、大仏殿内に展示されています。

以上、2体の脇侍像と四天王像をご紹介しましたが、鎌倉時代に重源上人が再建した大仏殿には、他に約2.4メートルもの「石造の脇侍像が2体と四天王像」が安置されていたと云われています。

大仏殿前の「びんずる尊者像」

大仏殿を順路に従って見学し、外に出ると左側(大仏殿の出入り口の向かって右側)に、赤い頭巾を被った像が安置されています。

これは、賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)の像です。

怖い顔をしていますが、自分が患っている場所を撫でると病気やケガが治るという「なで仏」として信仰され、「おびんずるさん」「おびんずるさま」などと呼ばれて、日本各地で親しまれています。

東大寺では、大仏殿の他に、指図堂の前にもいらっしゃいます。

  • 大仏殿前「賓頭盧尊者像」:江戸時代・木造
ところで・・「びんずる尊者」って??

びんずる尊者とは、お釈迦様の弟子の1人であり、仏閣ファンであれば良く耳にする「五百羅漢(ごひゃくらかん)」の1人でもあります。

五百羅漢とは、インド仏教の境地に立ち、さらにまだ見ぬ境地を極めるために、日々、苦しく険しい修行をする尊い500人の僧侶たちのことです。

びんずる尊者は、一説にはのウダヤナ王(優填(うでん)王)の家臣でしたが、出家して厳しく苦しい修行を行ったと言います。

説法に長け、他人に反論の余地を与えず、まるでライオンのようだということで、獅子吼(ししく)第一とも呼ばれました。

羅漢の中でも一際センスがあった「びんずる尊者」は、修行の末に特別な力・・つまり神通力を身に付けます。

しかし、自らの力を過信してしまい、己の欲求を果たすために神通力を使ってしまいます。

それを見ていたお釈迦さまは、大変ご立腹されたと言う伝記があります。

そこでびんずる尊者は、功徳を積み、自らの行いを改めるために、人々の願いを叶えるべく鎮座されているのだそうです。

びんずる尊者は酒飲み!?

びんずる尊者の像は、一般的に、白髪、長眉(ちょうび)、そして赤っぽい色の体で表現されます。

体が赤いのは、なんと!五百羅漢の1人ともあろう者が、酒を飲みすぎてお釈迦様の怒りに触れ、一時は破門されたといエピソードが伝わっているからだとも言われています。

ただしこれは俗説で、本当は、赤い体は、修行が極まり、体中に生命力が満ち、生気がみなぎっている状態を表しているともされています。

【補足】えぇっ?!東大寺には別名があった?!

実はこの大仏殿を含めた東大寺自体には、なんと!別の呼び名があったのです。

これはあまり知られていませんが、歴史が好きな方や神社やお寺がお好きな方なら知っているかもしれません。

その東大寺のもう1つの正式名称を「金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)」と呼称します。

この名前は、東大寺の建造を企画した「聖武天皇」が、後世の国の安寧を願って「国分寺(こくぶんじ)の詔」と言う、壮大な寺院群を造る計画をした際に誕生しています。

その「国分寺」は大きく次のような2つの種類に分けられます。

  • 国分僧寺(こくぶんそうじ)
  • 国分尼寺(こくぶんにじ)

これらの寺院には、実は法名と言う正式名称が付けられており、以下のように呼称します。

  • 国分僧寺=「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)
  • 国分尼寺=「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)

↑の説明を見て、勘の鋭い方であれば、「ピンっ!」と、来たハズです。

そうです。金光明四天王護国之寺とは、何も東大寺だけのことを言うのではないと言うことです。

すなわち、日本国内の「国分僧寺」であれば「金光明四天王護国之寺」と言う、別名を持っていると言うことになります。

これらの国分寺は日本の国内に数十あり、東大寺はその中でも「総国分寺」として、国分寺の取りまとめの総本山のような位置づけになっています。

東大寺が「総国分寺」である理由は、上述したように大仏建立の地であり、はたまた、その大仏さんが座しておられる寺院だからです。

【補足】その他の東大寺の見どころ

東大寺の見どころは大仏だけではなく、大仏殿前の金銅八角燈籠南大門法華堂(三月堂・金剛力士像)二月堂などがあります。

二月堂・・お水とりが行われるお堂。

南大門・・有名な仁王さんが立つ東大寺を守護する豪壮感あふれる門です。

法華堂(三月堂)・・かつて東大寺の前身であった上述、「金鍾山寺」の近藤くんだと目される・・おっと、金堂!!と目される東大寺境内で最古の歴史を持つとされるお堂です。

「双び堂」と呼称される「奈良時代のお堂」と「鎌倉時代のお堂」が合体して「1つのお堂」になっています。2つの時代のお堂が違和感なく見事なバランスで保たれている建物です。

 

東大寺の大仏さんについては、当サイトの以下のページ↓をご覧ください。
奈良県・東大寺の大仏の「大きさ(高さ・重さ)・名前・歴史・特徴」(画像・写真付き)
奈良県・東大寺の大仏と大仏殿を作った人・作り方・作った理由って??

大仏殿については、当サイトの以下のページ↓でも詳しくご紹介しています。
奈良県・東大寺の大仏殿の「屋根・瓦・鴟尾」と、柱の「由来・意味・歴史・輸送方法」など

東大寺に参拝へ来られた際は、二月堂や法華堂にも、足を運んで見られてはいかかがでしょうか?

きっと、素敵な発見が、あなたを待っていますよ。

おわりに・・

余談談ですが・・

大仏が立ち上がったら身長約30メートルもあるそうです。

ウルトラマンよりも10m低いとか。オホ

大仏が立ち上がったら身長約30メートルもあるそうです。ウルトラマンよりも10m低いとか。

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