奈良 東大寺・法華堂(三月堂)「四天王立像」【国宝】
像高
- 持国天:309cm
- 増長天:300cm
- 広目天:304cm
- 多聞天:310cm
素材・造り
- 脱活乾漆像
造立年
- 710年から794年(奈良時代)
重要文化財指定年月日
- 1897年(明治30年)12月28日
国宝指定年月日
- 1951年(昭和26年)6月9日
安置場所
- 東大寺・法華堂(三月堂)
「四天王」とは?
四天王は帝釈天の世界である「須弥山」の「欲界六欲天・第一世界」を守護する四天王です。
帝釈天の麾下(きか)に属する仏様です。
すなわち、帝釈天に使える4人の守護神で、釈迦から、仏教の守護を託されたとされています。
須弥山の周りには世界がいくつかあり、四尊は須弥山の東西南北の方角(州)を守護しており、持ち場が決まっています。
須弥山の周りの4つの世界
東勝神洲(とうしょうしんしゅう)
西牛貨洲(さいごけしゅう)
南贍部洲(なんぜんぶしゅう)
北倶盧洲(ほっくるしゅう)
甲冑を身に着け、邪鬼を踏みつけた姿で現されることが多く、広目天は「巻物」と「筆」、それ以外は「武器」を持っています。
多聞天は単独で祀られることもあり、その場合は「毘沙門天(びしゃもんてん)」と呼ばれます。
四天王像は、ここ東大寺以外にも同じ奈良では「興福寺」「唐招提寺」にも安置されております。
四尊が守護する方角と造立される場合の特徴は以下の通りです。
四天王の方角と説明
持国天
持国天の読み方は「じこくてん」と読みます。「東(東勝神洲/仏堂の場合は右手前)」を守護する。
刀や宝珠を持っている姿で現されることが多い。四天王の中で唯一、兜をかぶっている。
「乾闥婆(けんだっぱ)」や「毘舎遮(びしゃしゃ)」という眷属(けんぞく/一族のようなもの)を配下として従えています。
広目天
広目天の読み方は、「こうもくてん」と読みます。広目天は四天王の中でも唯一、千里眼を持つ仏様です。
「西(西牛貨洲/仏堂の場合は左奥)」を守護する。また須弥壇(しゅみだん)においては東南を守護する。そのため須弥壇では東と南側に置かれることが多い。
奈良時代までの像は左手に「経巻(巻物)」と右手に「筆」を持つことが多いが、それより後はほこや、羂索(けんさく/手錠が付いた縄)と呼ばれる縄を持った姿で現される。
持国天同様に「諸竜王」という眷属を従えています。
増長天
増長天の読み方は、「ぞうちょうてん/ぞうじょうてん」と読みます。
「南(南瞻部洲/仏堂の場合は左手前)」を守護する。刀やほこを持っていることが多い。
持国天・広目天同様に「鳩槃荼(くばんだ)」や「薜茘多(へいれた/=餓鬼)」という眷属を従えています。
多聞天
多聞天の読み方は、「たもんてん」と読みます。「北(北倶廬洲/仏堂の場合は右奥)」を守護する。
仏敵を打つ宝棒と、右手に宝塔を持つことが多いが、鉾(ほこ)を持っていることもある。
四天王の中でもっとも力が強く、四天王最強と云われています。
上述したように単独で祭祀される場合は、「毘沙門天(びしゃもんてん)」という名前になります。
毘沙門天に篤い崇敬を寄せた有名な人物としては「戦国武将の上杉謙信」が挙げられます。
上杉謙信は自らを毘沙門天の化身とまで公言しています。毘沙門天の「毘」の旗を掲げた兵団は有名です。
持国天・広目天・増長天同様に諸夜叉(やしゃ)を眷属として従えています。
東大寺・法華堂(三月堂)四天王像の「特徴・見どころ」
向かって右手前(南東)が持国天像、左手前(南西)が増長天像、左奥(北西)が広目天像、右奥(北東)が多聞天像という、一般的な配置です。
持国天像・増長天像・多聞天像が持っている武器は三叉戟(さんさげき)という、三又のフォークのような形のほこです。
広目天像は右手に筆を持っていたはずですが、なくなってしまっています。
多聞天像の左手も、いかにも何かを載せていたようなポーズなので、宝塔があったのでしょう。東大寺法華堂の四天王像の場合、兜をかぶっているのは増長天です。
兜には、盾の役割を果たす「吹き返し」が耳の左右についています。
えぇつ?!四天王は当初、武器を持たない穏やかな顔をしていた??
四天王は遠くインドで創造された仏様ですが、インドにおいての四天王像は表情がもっと穏やかで武器を持たない仏像でした。
しかしインドから中国に伝来した時に甲冑を着用して武器を持った四天王像へと姿を変えています。
つまりこの中国で生まれた四天王像が日本へ伝来したことになります。
【補足】東大寺・法華堂(三月堂)の仏像配置図
法華堂内の仏像配置図に関しては以下のページを参照してください。
東大寺・法華堂(三月堂)の場所とアクセス(行き方)
東大寺法華堂の場所とアクセス(行き方)については当サイトの以下↓の別ページにてご紹介しております。