東大寺二月堂の名前の由来とは❓歴史(年表)を….把握しておく❓

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東大寺二月堂(東大寺観音堂)【国宝】

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創建年

  • 不明
  • 推定:752年(勝宝4年)から800年(延暦19年)頃
再建年

  • 1282年(弘安5年/鎌倉時代)※修理
  • 1669年(寛文9年/江戸時代中頃)
舞台の建築様式(造り)

  • 懸造り(舞台造り)
堂舎の建築様式(造り)

  • 寄棟造り
屋根造り

  • 本瓦葺
大きさ

  • 桁行(奥行)十間(約18m)
  • 梁間(横幅)七間(約12.5m)
重要指定文化財指定年月日

  • 1944年(昭和19年)9月5日
国宝指定年月日

  • 2005年(平成17年)12月27日
ご本尊

  • 大観音(十一面観音菩薩立像)
  • 小観音(十一面観音菩薩立像)
発願者

  • 実忠

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東大寺・二月堂の読み方

二月堂は「にがつどう」と読む。

二月堂と呼ばれる理由とは?

「二月」と「堂」を切り離して考える分かりやすい。

修二会が2月に行われることが由来

東大寺では「お水取り」の通称で知られる日本仏教の法要の一つ「修二会(しゅにえ)」が、「旧暦2月」に行われることに由来して「2月堂(二月堂)」と呼ばれています。

つまりは”修二会”の名前に由来

そもそも「修二会」とは、御本尊「11面観音」に対する法要「十一面悔過(じゅういちめんけか)」が春迎えを告げる法要として、毎年2月に厳修されたことに由来する。

”2月に修する法会”として「修二会」、その修二会が毎年2月に執り行われることから「2月堂」と呼ばれるようになったと云われます。ウフ

えぇっ?!東大寺の境内のお堂には正式名称があった?!

実は東大寺境内の堂にはそれぞれ次のような正式名称がある。

東大寺のお堂の正式名称だよ
  • 大仏殿 ⇒ 「東大寺・金堂」
  • 三月堂 ⇒ 「東大寺・法華堂」
  • 四月堂⇒「東大寺・三昧堂

そして二月堂は「東大寺観音堂」と呼ばれる。これは本尊の十一面観音が堂内に安置されることに因む。うきゃ

東大寺二月堂のご本尊

東大寺二月堂のご本尊である「大観音」は「おおがんのん」、「小観音」は「こがんのん」と読み、いずれの観音様も「十一面観音菩薩像」となる。きゃきゃきゃ

二月堂の堂内にはこれら2体のご本尊が安置されており、関係者でもお顔を拝することができない「絶対秘仏」となる。

通例であれば、例えば仏龕(ぶつがん)であれば観音開きになっていて、中に安置される仏像が見られるようになってい申すが、二月堂の厨子には扉が無いというから驚きである。

これは開扉できなくしているというよりは、そのようにして奉斎する尊像というように考えるべきであり、いかに本尊が尊い存在であるのかが窺い知れる。

以上が絶対秘仏とされる理由となる。

十一面観音菩薩とは?

十一面観音菩薩は、なんと!11ものお顔を持つ菩薩様です。11のお顔をもって四方の果てまでを見渡し、信仰する衆生のいっさいを救済すると言うありがたい菩薩です。

奈良時代から平安時代あたりから、一般層にまで広く知られることになった菩薩様になります。

変化観音(へんげかんのん)」と呼称される観音の1尊でもあります。

小観音・大観音が二月堂の御本尊になった理由とは❓

二月堂の御本尊が「小観音」と「大観音」だとご紹介しましたが、実はこれらの観音が二月堂の御本尊として祀られたのには理由があります。

二月堂を創建したとされる実忠(じっちゅう)は、まだ二月堂というお堂ではなく、粗末な草庵(そうあん)に居処していた頃、生身の観音様を一目でいいから見たいと考えるようになります。

そこで実忠は当時、大阪難波津(なにわつ)の海の彼方にあると言われた補陀落山(ふだらくさん)へ祈願するために捧げるために、大阪難波津へ赴くのです。

そして難波津に着くとすぐさま「どうか観音様を一目で良いので見させてください」と毎日祈ったそうです。

すると不思議なことにある日のこと、海の彼方から1枚の閼伽折敷(あかおしき/仏前に供える食物を乗せるお盆)が浜辺に漂ってきたそうです。

そしてその閼伽折敷をよく見るとなんと!約7寸(約20㎝)の小さな十一面観音が乗っていたそうです。

急ぎ、閼伽折敷から観音様をすくい上げて手に持ったところ、なんと!人肌と同じような体温、つまり温もりが感じられたとのことです。

こうして望みが叶った実忠は、すぐさま二月堂へ帰り、御本尊としてお祀りすることにするのでした。

以降、現在では見ることは叶いませんが、二月堂の御本尊「十一面観音菩薩」は人肌と同じような温もりを持った仏様だと言い伝えられているようです。

なお、このとき海の彼方からやってきたとされる十一面観音の故事に倣い、二月堂の石階段には「波模様」と「亀甲紋(きっこうもん/亀の甲羅の模様)」が描かれています。(一説では亀の背に乗ってやって来られたとも。)


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東大寺二月堂の歴史

奈良時代(創建)

この二月堂や法華堂(三月堂)が建つ一帯は、古来、東大寺の「上院」と呼ばれ、大仏殿に大仏さんが安置される以前の東大寺の前身となるお寺「金鍾寺(こんしゅじ)」があったとされる場所です。

ちなみに「金鍾寺」という名称は東大寺開基「良弁僧正」が聖武天皇から授かった別名「金鷲(きんしゅう)」もしくは「金鷲行者(金鍾行者)」に由来するものです。

その金鍾寺がかつてあった場所を神聖視して、敬う意味合いで「上院」と呼ばれています。

この二月堂の創建は古く奈良時代になりますが、東大寺の寺伝によれば「大仏開眼供養」と同じ752年(天平勝宝4年/奈良時代)に東大寺の初代住職「良弁僧正」の弟子「実忠(じっちゅう)」が、十一面観音を本尊として祀り、十一面悔過法要(じゅういちめんけかほうよう)を執り行うための堂舎として創建したのが始まりであると伝えられています。

ただし、実忠は726年(神亀3年)に誕生していますが、没年や日本人であったのかも明らかにされておらず(一説ではインド人)、人物像があやふやなことから実在についての信ぴょう性にモヤがかかり、別の考察においては創建者および創建年は不明とされています。

平安時代

平安時代の二月堂は、古書物の記録を見るかぎりは、現在の三月堂(法華堂)の付近に存在したとされる「羂索院(けんさくいん/推定:733年創建)」の伽藍の1つのお堂として認識されていたようです。

また、この当時の二月堂全体の大きさは現在の内陣ほどの面積しかなかったようです。つまり、実忠が悔過法要を執り行うためだけの小さな草庵のようなお堂であった様子がうかがえます。

なお、上記、羂索院には現在の三月堂(法華堂)で安置されている「不空羂索観音菩薩立像」が、かつては御本尊として祀られていたとも考えられています。

鎌倉時代

1180年(治承4年/平安時代)に、高倉天皇の兄である以仁王が兵を招集して戦を起こし、平重衡が総大将としてこれを迎え打っていますが(南都焼討)、この時の戦火によって東大寺の伽藍は焼失しています。ただ、二月堂の立地が伽藍の北東端であったことなどが幸いして、この2月堂および、真逆の西端に位置した転害門などは奇跡的に戦火の類焼から逃れています。

室町時代(戦国時代)

1567年(永禄10年/室町時代)には、畿内(大阪府)の覇権をめぐり、団子三兄弟と、あイヤイヤイヤ・・三好三兄弟!!と松永弾正との間に戦が勃発します。

この戦は東大寺の伽藍内部までにも拡大し、両軍の陣がこの東大寺の境内に敷かれ、銃撃戦を伴う激しい戦闘が繰り広げられました。

しかしこの戦闘において、同年5月18日、敵襲に焦った松永の兵の失火により穀物倉庫へ引火、これが発端となり、東大寺の大伽藍が焼亡に至ります。しかしこの時もなんと!この二月堂は類焼を逃れています。

ちなみに、この穀物倉は鎌倉期の東大寺再建で活躍した重源上人が勧進活動を行った拠点となった場所でもあります。

江戸時代

このように一見、仏の力に守護された無敵の二月堂に思えますが、この後、悪夢が訪れます。

1667年(寛文7年)、運命のイタズラと言うべきか、この年に執り行われていた「修二会(3月14日)」の際の「達陀(だったん)」の火が堂舎に燃え移り、儚くも焼亡してしまうことになります。

その直後となる1669年(寛文9年)5月9日に江戸幕府「4代目将軍・徳川家綱」の生母である「桂昌院(けいしょういん)」と弟の「本庄宗資(ほんじょうむねすけ)」の発願によって再建されています。この時、同時に法隆寺の宮大工「中井金右衛門」により、上棟式が執り行われています。

これが現在見ることのできる東大寺・二月堂の姿となります。

江戸時代の再建とはいえ、創建当初の建築を忠実に再現しながら、江戸期の建築技法を混えつつ造営されている、極めて貴重な建造物となります。

以上のことから、正式には創建当初の姿が現存しているとも言えます。

平成時代

2005年(平成17年)には国から国宝指定を受けています。


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二月堂の歴史年表「改築年および再建年」

実は、この二月堂は時代を経る過程で幾度か改築が成されています。

1206年(元久3年/鎌倉時代)

1206年(元久3年)に供養が執り行われた際、礼堂(らいどう)が2つに分断されて「内礼堂」、「外礼堂」という2つの部屋ができています。

1219年(建保7年)

1219年(建保7年)から1226年(嘉禄2年)には、内陣の側面と背面の「南・北・東」に三面状の庇(ひさし)が据えられています。

1264年(文永元年)

1264年(文永元年)には、戒壇院(戒壇堂)を復興した東大寺の学僧「円照上人(えんしょうしょうにん)」が西側の舞台部分の床を張り替えています。

この他、二月堂の付近に位置する食堂(じきどう)、湯屋(ゆや)の造営が行われています。

1300年頃から1400年頃の間(室町時代)

1300年頃から1400年頃の間には、東大寺の僧都・円範(えんはん)に手によって内陣の側面と背面の「南・北・東」の三面に局が造営されています。

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