奈良 東大寺「念仏堂」【重要文化財】
創建年
不明
推定:1237年(嘉禎3年/鎌倉時代)
再建年
1961年(昭和36年)〜1963年(昭和38年)
建築様式(造り)
一重・寄棟造
大きさ
横幅:約6m
奥行:約10m
屋根の造り
本瓦葺
※錣葺き(しころぶき)
重要文化財登録指定年月日
1903年(明治36年)4月15日
ご本尊
地蔵菩薩立像
発願者
重源上人
東大寺・念仏堂の読み方
東大寺の境内には難しい漢字の表記で読みにくい名前の仏像や堂舎が存在しますが「念仏堂」は「ねんぶつどう」と読みます。
念仏堂の歴史
東大寺念仏堂の創建時期は定かではなく、創建当初から存在したのかは不明とされていますが、一説によれば、摂津で遊女屋を営む「藤本権守(ふじもとごんのかみ)」という人物が創建したという言い伝えもあります。
しかしご本尊・地蔵菩薩像の中から「嘉禎三年・千二百三十七年・大仏師康清」と刻まれた刻銘が発見され、これが創建時期を示す証拠として考えられています。
つめりこの銘を創建年を示す証拠と定めるのであれば、1237年(嘉禎三年/鎌倉時代)に大仏師康清が造立したということになります。
なお、現在までの調査では、大仏師康清が重源上人や慶派の仏師といった東大寺建立に携わった人物たちを供養するために地蔵菩薩を造立したことが明らかにされています。
1697年〜1705年(江戸時代)の間には公慶上人による大仏殿再建期間中にこの念仏堂と後述の地蔵菩薩坐像、その他、境内大湯屋が併せて修理されています。
東大寺・念仏堂の建築様式(造り)
この念仏堂は重源上人の発願であり、細部には大仏様の建築様式を見ることができます。
正面の手前に開閉式の桟唐戸(さんからと)などは後に禅宗様と呼ばれる代表格です。桟唐戸が設けられた堂舎の多くは修行するためのお堂であることが多く、実際、この念仏堂においても念仏修行が盛んに行われていたものと考えられます。
江戸時代には正面に向拝(こうはい/庇)が据えられていたことが確認されていますが、現在は創建当初の姿を復元するために向拝部は解体されています。
錣屋根
錣屋根は「しころやね」と読み、この様式は現代建築でもよく知られる「入母屋造り」の原型になったとも云われる造りです。
特徴としては屋根が2重になったように見えます。よく念仏堂の屋根をご覧になってください。
これはかつて法隆寺・金堂に安置されていた玉虫厨子の屋根が最古と云われており、現在の建築でこの屋根をした建造物を見ることはほとんどありません。
現存している錣屋根の堂舎の例としてこの念仏堂以外では、同じく東大寺境内の俊乗堂、浅草・浅草寺の「影向堂(ようこうどう)」などに見ることができます。
東大寺・念仏堂の見どころ
ご本尊「地蔵菩薩立像」【重要文化財】
念仏堂のご本尊「地蔵菩薩立像」は上述した通り鎌倉時代の造立だと考えられています。
地蔵菩薩立像とは現世におけるお釈迦様です。お釈迦様から自らが現世から去った後の世界を託された仏様です。
ただしお釈迦様の正統後継者は「弥勒菩薩(みろくぼさつ)」であり、現世に降臨された際にお釈迦様になります。
しかし残念なことに、弥勒菩薩は56億7000万年後にならないと現世に降臨しません。
では、その間の現世はどうなるのか?・・という素朴な疑問がでてきますが、その間のお釈迦様と弥勒菩薩の代理となる存在がこの地蔵菩薩です。
つまり私たち誰もが常識として知っている「お地蔵さん」のことです。
浄土宗・浄土真宗などの浄土教系の宗派では、人間は「六道(ろくどう)」という6つの世界を何度も生まれ変わりながら巡っていくと考えられています。
- 六道=地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天
地蔵菩薩は、この六道を姿を変えながら巡り歩き、すべての衆生(生き物)を救うとされています。
「地蔵盆」「地蔵菩薩像」と「地蔵信仰」
地蔵菩薩像は、街中の至る場所で見受けられます。
地蔵菩薩像が、如意宝珠と錫杖(しゃくじょう)を持ち、袈裟を着た僧の姿で表され、寺院の堂内だけでなく道端に置かれることが多いのは、地蔵菩薩が六道を旅する仏だからです。
また、地蔵菩薩が「六道」を旅するということから、地蔵菩薩像は6体一緒に置かれることもあり、これは「六地蔵」と呼ばれます。(一例:長野善光寺の六地蔵)
地蔵信仰が広まったのは平安時代のことでしたが、貴族階級だけでなく、極楽往生するために現世でお金をかけられない平安時代の庶民たちの間にも普及しました。
それもそのはず、地蔵菩薩は、たとえ生まれ変わった先が地獄でも、救いの手を差し伸べてくれるのですから!
さて、例年、真暑の夏い季節になれば「子供たちが大はしゃぎする日」が到来します。
お地蔵さんと深い関係をもつ日です。お分かりになりますか?
・・そうです。「地蔵盆」です!
例年、旧暦7月24日には日本全国の至る地域で地蔵盆が行われます。
町内会が主体となってお菓子を近所の子供たちに配ったり、はたまたそこらの家に訪問すれば、この日はお菓子をくれます。
ただし無邪気な子供が主体なので、オッサンが訪問すれば逮捕される危険性があります。ご注意を。オホ
これらは地蔵菩薩のご利益に基づくもので、平安期以降、「子供の育成を見守るご利益がある」として広く信仰が寄せられてきました。
現在でもこの信仰は受け継がれており、その証拠に街中の至る場所にお地蔵を見かけることができます。
ええっ!?地蔵菩薩は閻魔様なの!?
中国では、閻魔を含む10人の王が死んだ人の罪の審判を行うという「十王信仰」があり、これが「地蔵十王経」として日本に伝わりました。
平安時代の日本では、「本地垂迹説」という、神様は仏様の仮の姿であるとする考えが広まり、地獄の王たちも仏の化身だと考えられるようになっていました。
これによると、閻魔も仏の仮の姿であり、その仏とは、なんと、地蔵菩薩だとされたのです!
このような考え方は、現世で悪巧みを働いて地獄へ落ちかけた際、功徳が少しでもあれば地蔵菩薩が閻魔大王に取り入って、極楽浄土へお連れ下さるということで、広く認知されるようになりました。
地蔵菩薩の仮の姿だとされる神には、他にも、愛宕神や天児屋命(あめのこやねのみこと)などがいます。
このように、様々な神や信仰と結びつきながら、地蔵菩薩は日本人にとってもっとも身近な仏様になっていったのです。
お地蔵さまに子供の成長や水子供養など「子供に関しての祈願をする理由」
たとえば今、お地蔵さんが目の前になくても、ド頭の中でお地蔵さんの姿をイメージすれば、「鉄の杖」と「赤いヨダレ掛け」をしている姿が想像できませんか?
これは地蔵菩薩に「ヨダレかけ」や「お菓子」を供えて子供の成長の祈願しているためあり、この理由は「水子信仰」に基づくものです。
幼くして亡くなった子供は功徳を積む時間がなかったので「賽の河原(さいのかわら/三途の川の岸辺)」へと流されます。..いっぺん死んでみるぅ?(by.地獄少女)
そんな哀れな子たちを救うスーパーマンこそが地蔵菩薩です。
夜泣き地蔵
あまり知られていませんが、1961年〜1963年に念仏堂の解体修理が執り行われていますが、このときに御本尊である地蔵菩薩蔵が俊乗堂に一時的に遷(うつ)されています。その移動時に体躯に修理箇所が見つかったことから、御本尊も修理されることになりました。
そこで思わぬ発見があります。
なんと!御本尊「地蔵菩薩像」の胎内からもう1つ「小さな地蔵菩薩像」と「地蔵菩薩像を入れた箱」が出現し、さらに墨書が発見されています。
この墨書によれば東大寺中興の祖ともいわれる重源上人と当時の仏師たちの冥福を祈るために1237年(嘉禎3年)に造立された像であることが明らかにされています。
墨書は地蔵菩薩像を入れた箱の上蓋に銘が残されており、次のような内容になります。
『1968年(元禄11年)12月22日、本像を修理した。その成功を記念してこの小さな地蔵菩薩像を収めた。公慶(公慶上人)』
「夜泣き地蔵」と呼ばれる理由
この小さな地蔵菩薩蔵が「夜泣き地蔵」と呼ばれる理由は、夜道を頻繁に歩く遊女が御身の保身のために肌身に持つ際、肌に傷が付かないようにと、像の小片をもぎ取ったそうです。そのときに地蔵菩薩像が泣いたとの故事があり、「夜泣き地蔵」と呼ばれたそうです。
夜泣き地蔵が念仏堂に存在する理由は、なんでも重源上人が周防へ赴いた際、摂津の上述した藤本権守の家に立ち寄り、香木で造立された小さな地蔵菩薩像をもらい受けたという話がのこされているからです。
東大寺・念仏堂の御朱印
ここ念仏堂ではオリジナルの御朱印をいただくことができます。中央に「地蔵菩薩像」と大きく墨書きされた御朱印になります。
念仏堂の御朱印の値段:300円
この他、「泰山府君の御朱印(8月から9月初旬まで授与の限定御朱印)」と「地蔵菩薩の御詠歌の御朱印」もいただけます。
念仏堂と行基堂の間には授与所があり、ここで念仏堂、行基堂、俊乗堂などの御朱印が頂けます。
東大寺の御朱印の詳細に関しては当サイトの以下の別ページにてご紹介しております。
英霊殿
また、念仏堂の奥は1本の廊下があり、その先もう1つ堂舎が建てられています。
この堂舎は「英霊殿」と呼称される堂舎であり、ここでは第二次世界大戦で命を散らした英霊たちが祀られています。
どうも念仏堂自体の目的とは念仏修行の場所であるとともに、不特定多数の人々を弔うためにあるような堂舎であると見受けられます。(他にも祀られている人物がいるようです。)
東大寺・念仏堂の場所と行き方(地図)
念仏堂は行基堂の隣に位置します。念仏堂・行基堂・鐘楼が1つの場所に寄せ集まっています。同時に拝観することができます。
大仏殿からは所要時間にして徒歩約5分ほどです。
ちなみに念仏堂が建つあたりはかつて「金鐘寺(こんしゅじ)」もしくは「金光明寺(きんこうみょうじ)」と呼ばれた東大寺の前身とされる寺院の伽藍があった場所です。この伝承を敬う意味合いで別名で「上院」と呼ばれているエリアになります。