奈良県・東大寺の大仏殿の「屋根・瓦・鴟尾」と、柱の「由来・意味・歴史・輸送方法」など

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奈良県・東大寺の大仏殿の「屋根・瓦・鴟尾」と、柱の「由来・意味・歴史・輸送方法」など

東大寺大仏殿は度重なる焼失と再建を繰り返し、ついに戦国時代から江戸時代にかけての約140年もの間、再建されることがありませんでした。

そして140年経た江戸時代中期に5代目将軍・徳川綱吉の寄進によってようやく大仏殿の再建が成っています。つまり、140年もの間、大仏殿の内部で祀られている大仏さんは外で雨風に晒されていたことになります。

以下では主に、江戸時代以降の大仏殿の歴史、屋根、その屋根を支える柱の由来、輸送方法などを述べています。

東大寺大仏殿の屋根の重さは、3020トンもある?!

東大寺大仏殿の屋根の重さは、3020トンもある?! (2)

東大寺の大仏さんを雨風から守っている大仏殿の屋根の総重量はなぁんと!3020トンもあるそうです。

さらに瓦の総合計枚数はなんとぉぅぉぅ!!11万枚!!もあるそうです!オラぁ、オったまゲタばい。ばぃばぃ

さらに、なんとぉぅぉぅぉぅぉ..ゴホっ。..ぅぉぅぉっ!!瓦だけの重量で1500トン!!もあると言うじゃ・・ア~りませんか!

また、東大寺の屋根には、江戸時代の再築の際に、「鳥衾瓦(とりぶすま)」を、金色の「鴟尾(しび)」に変えたと言われています。

鳥衾瓦(とりぶすま)とは?

東大寺大仏殿の屋根の重さは、3020トンもある?!鳥衾瓦(とりぶすま)の「鳥衾」とは、鬼瓦の上などに付ける、反るような形の、長く突き出した円筒状の瓦のことを言います。

 

「衾」とは「ふすま」と読み、これは平安時代の寝る時に着用する衣服のような意味合いがあり、現代風に例えると「ナイトウェア」や「ネグリジェ」がこれに該当します。

この「衾」に「鳥」を付すことで「鳥が寝る場所」という意味合いになります。

これはつまり、鬼瓦を「鬼門封じ」や「厄除け」のための神聖なものと捉えて、鬼瓦を鳥のクソ(うんこ)で汚さないようにしていると考えることがでます。

この理由の1つとして地域によっては「雀瓦(すずめがわら)」と呼称する地域もあるようです。

鴟尾(しび)とは?

東大寺・鴟尾・尿瓶鴟尾(しび)とは、屋根の中央部にある「大棟」と呼ばれる、屋根を支える太い木の両端に付けれれた「飾り」です。

有名なのが、名古屋城にある「金のシャチホコ」です。

鴟尾は中国大陸から伝わったもので、中国では鴟尾を水の象徴でもある魚の形にして、「火除け(=防火)の御守り」としたそうです。また「鯱(しゃち)」という水を自在に操ることのできる「伝説の怪魚」が中国では古くから伝承されており、この鯱に由来しているとも云われています。名古屋城の「シャチホコ」もこの鯱(しゃち)の名前になぞらえたものです。
魚が水面から飛び上がり、尾っぽを水面に出したもので、屋根が水面だとすると、水面下にある建物は燃えないと考えられているようです。

そして、大仏殿の屋根を支える2本の「虹梁(こうりょう)」は、それぞれ23.5mの「アカマツ」が使われています。

虹梁(こうりょう)とは?

虹梁(こうりょう)とは、屋根を支えるために、木を支えられる形に加工したものです。

その形が、虹(にじ)のように反りがあることから、虹にという名前に由来しています。

高さの違う屋根を均一に支えるために、屋根に合わせてこのような形になったと思われます。

虹梁(こうりょう)とは?

このような3020トンの屋根を支える必要があるため、次のような技術がこの大仏殿には使用されています。

  • 江戸時代に考案された加重を柱で受ける技術「集成材」
  • 強度があり耐久性の高い”アカマツ”

以下ではこれらの東大寺・大仏殿の大屋根を支えている柱に関してご紹介しています。

 柱の建築技法「集成材」

大仏殿の内部の柱をよく見ると柱に割れ目があるのに気づきます。

この割れ目を天井まで目で追っていくと、天井まで割れ目が続いているのが視認できます。

本来、屋根を支える柱は1本ですが、実はこれは1本の柱の周囲に別木を充てて補強しているので割れ目に見えるのです。

「集成材」とは、このように1本の柱の周囲にさらに別木を複数、継ぎあてて1本の柱を補強する技術のことで、江戸時代の再建の折に、考案されて用いられました。

現在見ることができる大仏殿内に設けられた柱1本1本も、その江戸時代の再建時の偉大な遺構の1つと言えます。

集成材が用いられた理由

このような集成材が用いられた理由の1つに、樹齢数百年規模の用材の確保が困難であったことが挙げられます。

後述するたった2本のアカマツの巨木でさえ、わざわざ遠く南九州からこの東大寺まで海上と川下りを利用して輸送しています。

このように大きな木が手に入りにくいので、やむなく樹齢の若い木を補強材として採用する必要があったと言えます。

樹木は縦ジワが縦方向にたなびくために、上からの加重に対して耐久度を発揮します。たとえ割り裂いたとはいえ、補強材として用いればそれなりの耐久度が備わり、すなわち1本の巨大な柱に見立てることができるというワケです。

ただし、横からの加重に対しては耐久度がありませんので、例えば、大屋根を支える横木となる「虹梁(こうりょう)」には、後述するようなアカマツの巨木が使用されています。

日向国(宮崎県)から大和国までアカマツを輸送した経路↑大仏殿の虹梁の場所(赤印)

東大寺大仏殿の2本の虹梁の大きさ

  • 直径(太さ):約1.3m
  • 長さ:約23.6m
  • 重さ:約23t

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 柱の材料「アカマツ」

えぇっ?!東大寺は本当は存在していなかったかもしれない?!

1709年(宝永6年)の江戸期の東大寺再建において、構想が持ち上がった当初、当時の建造物で3020トンもの屋根の重量を支えきれるだけの用材(木)や技術がありませんでした。

そこで採用された戦法であり、技術が上述した「集成材」です。

ただし、集成材は横からの加重には耐久度がありませんので、屋根を支える重要な横木である「虹梁」部分に用いるのは不向きです。そこで当初、大仏殿の再建はやはり不可能との声が上がり、中止の話まで持ち上がったようです。

ただ、大仏殿の再建は国家の最重要プロジェクトでもありましたので、容易く中止などできず、江戸時代では入手不可能と言われた巨木を探すプロジェクトが進行されます。

そして長期間を要して探した結果、1704年(宝永元年)にやっとの思いで探し当てることができたのが、日向国(宮崎県)にある霧島山の白鳥神社の付近に群生していた”アカマツの巨木”になります。

巨木の種類は「アカマツ」と言う、種類の木で、1704年に日向国(宮崎県)にある霧島山の白鳥神社の付近に育っていたいたそう

しかし、ここで問題が持ち上がります。

この巨木を九州から、山々に囲まれた奈良県まで、どうやって運ぶのか?と、言うことです。

このようなことから、当時では輸送できるのかが危ぶまれていました。

そんな暗雲が立ちこめる中、輸送の計画は進み、アカマツの切り出しから開始されることとなりました。

1本目のアカマツ

切り出されたアカマツの長さ(大きさ)

  • 全長:約54m
  • 横幅:直系約1.3m
  • 重さ推定:23.2t

アカマツを切り出すまでに必要だった人の人数

  • 木こり90人

アカマツを切り出すのに消費した日数

  • 4日間

2本目のアカマツ

切り出されたアカマツの長さ(大きさ)

  • 全長:約54m
  • 横幅:直系約1.2m
  • 重さ:推定:20.4t

アカマツを切り出すまでに必要だった人の人数

  • 木こり:100人

アカマツを切り出すのに消費した日数

  • 3日間

切り出すの消費したアカマツ1本分の値段

  • 2000両(現在の価格にして2億5000万円)

日向国(宮崎県)から大和国までアカマツを輸送した経路

宮崎県の山奥から、奈良県までの輸送は、難航を極めるものでした。

輸送の道中で命を落としたり、行方不明となる者も数多く出ました。

1703年1月7日「霧島山・白鳥神社」を(陸路)出発

↓(1日860人と牛40頭の力で引きずりながら輸送)

薩摩湾岸・国分新川口港に到着

ここまで輸送距離
  • 98.2 km
到着まで消費した日数
  • 115日(約4ヶ月)

国分新川口港
(「千石船」全長30メートルほどの大型船へアカマツを乗せて海路で輸送開始)

↓鹿児島湾
↓日向細島港
↓豊予海峡
↓瀬戸内海
↓兵庫港(兵庫県)

大阪伝法川口(港)

ここまでの瀬戸内海航海期間
  • 約2か月

大阪伝法川口港から川船に積みかえて川で輸送を開始

↓淀川をのぼり
↓木津川を下る
木津(ここからは陸路。数千人で”寄進引き”)

東大寺

ここまでの陸路でかかった日数
  • 約2か月
総・輸送距離

  • 3338 km
総・輸送期間

  • 約8か月

日向国(宮崎県)から大和国までアカマツを輸送した経路このようにアカマツの輸送には多大な人手と時間を要し、中には「寄進引き」と言って、大仏さんに対する厚意でアカマツの輸送に参加された方も連日、数千人近くいました。

しかし当時の輸送技術では、九州から奈良まで輸送は困難を極め、残念ながら途中で大勢の方がお亡くなりになりました。

東大寺の柱の1本1本は、たくさんの方々の命や血と汗、色んな思いが詰まった柱です。

東大寺へ行かれた際は、大仏だけではなく、どうかこの柱もじっくりと見学して大勢の英霊の方々へ、ご冥福をお祈りください。

明治時代についに!まさか?!・・どうする?

江戸時代に考案された集成材の技術ですが、明治時代を迎える頃にはボロが出はじめて、いよいよ大屋根が波打つように型崩れしはじめます。

つまり、3020tもの巨大な屋根を支える柱たちにもいよいよ限界点が生じ、倒壊の危険性が懸念されはじめました。

そこで本来であれば、江戸時代のように巨大な柱を新たに据えて再建という話になりますが、いつの時代も問題となるのは「柱に用いるための巨木」です。

古代のように原生林が存在して巨木がウヨウヨ、ウっヨっ!ウっ、ヨっ!ホっ!・・とそこら中に群生しているわけではありません。こホンっ!

そこで、やむなく採択された案が現代技術の集大成とも言える「鉄骨」を用いる手法です。

東大寺・大仏殿に初めて据えられた「鉄骨トラス」

上述したように鉄骨自体は細いですが、鉄なので耐久度だけにフォーカスすれば樹木をしのぎます。

そこで、鉄骨をトラス状(あやとり状)に組み上げて、それを1本の巨木に見立てて虹梁に据えるプランが採用されます。

↑鉄筋のトラス組み

 

この鉄骨はイギリスから輸入した「SHELTONSTEEL(シェルトン・スチール)社」製の鉄骨であり、すでにトラス組みされた鉄骨をそのまま仕入れています。

明治時代では硬度が備わった最新型の鉄骨だったようです。

通例であれば国宝・重要文化財などのいわゆる文化財には指定要件のこともあり、鉄骨を用いるのは論外です。

しかし、用材が確保できない以上、鉄骨を採用しなければ大仏殿はいずれ倒壊に至り、存続することすらままならない状況になりますので、苦渋の選択であったと言えます。

したがって、このような文化財に鉄骨を用いた修復例は過去に存在せず、すなわちこの東大寺大仏殿が日本史上における初例となっています。

11年間にもおよんだ明治の大修理

この最新型の鉄骨を据えるために、1903年(明治36年)から「明治時代の大仏殿の大修理」が開始され、ぬぅあんとぉぅ!!およそ11年間もの歳月を要して執り行われています。

この大修理では、鉄骨トラスを据えることが第一の目的ですが、並行して各柱の補強と、屋根の荷重の軽減も行われています。

また、この明治の大修理によって虹梁に用いられたアカマツが、経年劣化で50㎝もソリ曲がっていたことが判明しており、大屋根が型崩れを起こしていた理由も明らかになっています。

主な修理内容としては、江戸時代に据えられた虹梁は撤去せずに、真下を添わせて補強する形で鉄骨トラスが新たに据えられています。(↓内部写真)

画像引用先:県民だより奈良

今日、奈良の大仏さんは奈良時代から伝わる国宝・盧舎那仏として広く知られ、日本中から多くの参拝者がこの大仏殿に訪れています。

これら多くの参拝者が太古から存在する威容感に満ちた大仏殿に感服し、満足気に帰途につかれると思いますが、屋根裏には実はこのような鉄骨が用いられている事実を知る人はごくわずかだと思われます。

本来であれば、鉄骨が目に見えてもオカシクはないのですが、明治の大修理のもう1つの目標として「歴史的建造物として著名な国宝・大仏殿なので、可能なかぎり鉄骨を見えないように配慮すること」が掲げられています。

耐久度を考慮した上で鉄骨を見えないようにするためには、かなりの知恵や技術が必要になります。このような職人さんや東大寺の配慮にもどうか気に留めていただき、大仏殿がたくさんの人の知恵や建築技術の結晶であることも知っておいてください。ウフ

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